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梶井基次郎『のんきな患者』読書会 (2022.3.18)

2022.3.18に行った梶井基次郎『のんきな患者』読書会のもようです。


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青空文庫 梶井基次郎 『のんきな患者』

朗読しました。


『のんきな人間は死に臨む存在であることを避ける』


私が小学生だった80年代に、隣町の民家の風呂場のすりガラスに観音様の像のような模様が現れた。地元のTVのニュースでも取り上げられて、参拝者が観音様の模様に列をなしたことがあった。

 迷信が迷信のまま通じた時代があったのである。だから、結核の進行を遅らせるためにメダカを呑んだり、人間の脳みそや、ネズミの黒焼きを食べたりする迷信は、つい先日まで実際にあったのを私は思い出す。

かつて、難病や貧困による孤独が、迷信への入り口であった。

90年代に、冷戦が終わり社会主義の失敗が明らかになり、続いて、オウム真理教の一連のテロ事件が起こって、新興宗教の終末思想のインチキが露呈され、イデオロギーと宗教の迷信が世間において相対化されて一掃された。

しかし、現代においても、迷信は、脈々と世間の底に横たわっている。

 

(引用はじめ)

 吉田はそんな話を聞くにつけても、そういう迷信を信じる人間の無智に馬鹿馬鹿しさを感じないわけにいかなかったけれども、考えてみれば人間の無智というのはみな程度の差で、そう思って馬鹿馬鹿しさの感じを取り除いてしまえば、あとに残るのはそれらの人間の感じている肺病に対する手段の絶望と、病人達のなんとしてでも自分のよくなりつつあるという暗示を得たいという二つの事柄なのであった。

 (引用おわり)

 コロナ禍においても迷信はあった。陰謀論というのは、現代の迷信である。仮説を立てて検証して、客観的根拠の曖昧な思考を潰していくという科学的態度は、世間においては、手間がかかりすぎて、難しいのである。病気から想像される孤独や絶望への不安は、人から正常な判断力を奪う。気が弱っていれば、この作品の付添婦や宗教勧誘の女の言葉が、グサグサ心に刺さり、普段なら信じないようなことも信じてしまうだろう。

 死に臨む存在であるということこそが、人間の本来性なのだ、とハイデッガーが『存在と時間』で書いていた。我々は、死に臨む存在の本来性を隠蔽して、日常生活を生きている。迷信も、迷信についての世間話も、死に臨む存在だという本来の人間のあり方からの逃避である。

 吉田は、死に臨んで、世間から脱落して、静かに孤独に死んでいく人の姿を、明日の我が身として思い描きながらも、「はたして人間としての自己の本来性が何なのか?」をつきつめるところまで至らなかった。

 わけのわからない曖昧な不安の中で苦しみながら、『ヒルカニヤの虎』や『自己の残像』という本来性からの逃避の手段を無意識に弄んでしまうことこそが、『のんきな患者』の「のんき」たる所以ではないか、と私は考えた。

 (おわり)

読書会のもようです。



お志有難うございます。