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志賀直哉『佐々木の場合』読書会 (2023.6.2)

2023.6.2に行った志賀直哉『佐々木の場合』読書会のもようです。

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私も書きました。

帝国主義的膨張と欲情が一体化している反動的な人物

 
「条件に拘束されている」

こういう抽象的な言い方以外に、うまく言えないのだが、軍人としての立身出世を夢に抱く野心家の佐々木と、石川県から上京して、子守として働く気の弱い富は、二人とも主人の家で、住み込みでは働かなければ、生きてはいけない不自由な身の上である。この不自由な条件で、恋愛関係を結ぶとすれば、障害がたくさんある。

佐々木は、気の弱い富と半ば強引に関係する。この強引さは、彼の野心の強さと、性欲の強さとに起因していて、彼をして富に対し支配的な立場をとらせている。そして、またその強引さが、彼の強い嫉妬心の原因にもなっている。

家の主人にも、抱車夫にも、泥練り爺さんのいじりにも嫉妬の感情を煽られ、富を強く束縛するのである。

強引さが、謀反の気にまで発展しそうな佐々木の性質が、幼いお嬢さんのこれまた一家の正統性に由来する気の強さと無意識でぶつかったのか、お互いに反目して、佐々木とお嬢さんは憎み合っている。富は、佐々木に迫られる性的関係と彼の強い嫉妬に、不安と罪悪感を覚えている。しかし、生来の性格の弱さから、はっきりとした態度をとれずにいる。

結局彼女の不安と罪悪感は、お嬢さんの火傷という形で顕在化した。

無意識が顕在化して、大事件になり、登場人物の本性が明らかになるというのが、この作品の、アリストテレスの『詩学』のカタルシス論を地で行く、面白さである。

 

意識するとしないと関わらず、心理的な綾が幾重にもなっている人間関係を、我々は生きている。

それが事件を構成する結びつきにまで高まり、本性を暴くというのが、ドラマチックである。

佐々木の告白を聴いている、この作品のナレーターは、佐々木の本性を暴き出し、それが、「自分には感じられない欲情の強さ彼にはある」と結論づけた。

 

男である私が、志賀先生の作品を読んで、いつも感心するのは、「欲情の強さ」への煩悶である。罪悪感を感ずるほどの欲情の強さに、志賀先生は、真っ正面に向かい合って、それを表現しようとしている。私だったら、そんな恥ずかしいことできないし、そもそも淡白なので、ここまで深く煩悶しないし、お嬢さんをやけどさせるまでの無責任な諸々を起こしようがない。

志賀先生は、欲情の強さから事件を起こして、その因果をつぶさに観察して、それによって、己の本性を暴き出しさらけ出すという私小説的な作家の業を持っている。その点では、ブレもしないし、逃げてもいないのである。佐々木の告白は、志賀先生の若き日の心情の告白とニアイコールであると思う。この生々しさに、やはり感動するのである。

 

制御できない欲情の強さというのは、これは政治的反動の概念にも結びつく、厄介なものである。それは、世間の人間関係の根っこの部分にはびこる、不穏なものである。現代でも反動的な政治的な立場に近い人の中に佐々木と同じ傾向の人物をたくさん見る。強い性欲で世間は回っている。それに、泣かされているお富さんのようなひともたくさんいる。

 

戦前の日本人の帝国主義的膨張というのは、「欲情の強さ」に起因していると、私なんかは思うし、ロシアで大使館付の大尉になった佐々木は、帝国主義的膨張と欲情が一体化している反動的な人物である。志賀先生が、そういった人間の心情を裁くわけでなく、自らのうちにある反動的側面として冷酷に観察し、暴き立てているのは、さすがだと思った。

佐々木の場合という題名が、条件に拘束されている抑圧的な日本社会の欲情の発露をもとめての諸現象に深く食い込んだ洞察を含んでいるので、しきりに感心したのである。

(おわり)

読書会のもようです。



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信州読書会 宮澤
お志有難うございます。