見出し画像

トーマス・マン『魔の山 第1章〜第4章』読書会 (2023.2.17)


2023.2.17に行ったトーマス・マン『魔の山 第1章〜第4章』読書会のもようです。

メルマガ読者さんの感想文はこちら

八王子ひげだるまさんが作成してくれた人物一覧です。
トーマス・マン「魔の山」登場人物一覧表 第一章から第四章

私も書きました。


「授業が終わったらきっと返してね」

 

(引用はじめ)

私生活の神聖さは、隠されたものの神聖さに似ており、すべての生きものと同じく、地界の暗闇から出てそこに帰る死すべき人間の生と死の神聖さ、その始まりと終わりの神聖さに似ていた。

(ハンナ・アーレント『人間の条件』 ちくま学芸文庫  P.92)

(引用おわり)

 私生活は、世間から個人の生と死を隠す場所なのである。死期を悟った猫が、ひっそりと姿を消すように、本来なら、死は他人の目から隠されるものである。同様に出産も万人の立会いのもと行われるものではないまた、セックスを隠すのも、それがエロスとタナトスという最も私的な事柄に深く関わっているからだろう。

しかし、療養所では、患者は私生活を奪われている。死にゆく者は、常に他人の誰かの眼差しに赤裸々に晒されて軽視されており、病状は、噂話や自虐のネタになっている。隣のロシア人カップルの情事もあからさまである。

 「からかい」の章(P.100)に臨終の男が暴れて、ベーレンス顧問官に「そんな真似はやめてもらいましょう!」と叱られるのをヨーアヒムが紹介した。それに対してハンスは腹を立てて「臨終の人はいわば神聖なんだ!」と憤慨した。しかし、この療養所では、死はあからさまなのである。

 食事や横臥療法が、ルーティンとしてスケジュールに組まれている生活の中で、世間にいるときなような時間感覚を失い、意識が深く自己の内部の無意識の領域にまで沈潜していくハンスであるが、療養所では、人間の死は神聖さを失っていることに愕然とする。だが、病気が発覚するまでは、彼には、そんなことは結局は、他人事であった。

 同級生で、なんとなく惹かれていたヒッペの面影が、マダム・ショーシャの存在に重なるきっかけとなる「鉛筆を借りた逸話」がP.162とP.214とに描かれている。ヒッペの青色がかった灰色の眼の色が、彼女のそれと同じであった。(P.254)

 夢の中で、彼女の「授業が終わったらきっと返してね」といって渡した鉛筆は、これは、フロイト流の夢分析で類推するに、結核に蝕まれたハンスの「生命の神聖さ」のことを指すのだろう。

 療養患者は、サナトリウムにおいて、私生活で隠されているべき、自己の@「生命の神聖さ」、明け渡しているのである。マダム・ショーシャとの恋は、貸しである。つまり、ハンスの「生命の神聖さ」を、彼の内部にかりそめ、いっときだけ貸してくれたのである。それですらも、死を運命づけられたこの療養所の中では、恋も、一時的ななぐさみであり、自分の死とともに、(授業=療養所の生活の終了とともに)ハンスは、「生命の神聖さ」を、借りた鉛筆のように、返さなければならない。

この療養所では、死に臨んで、「臨終の人はいわば神聖なんだ!」と叫んでも手遅れなのである。

 死骸がボブスレーに乗せられて療養所を出ていくグロテスクな話(P.24)を、最初は笑い飛ばしたハンスであったが、自分が「生命の神聖さ」を奪われて、ボブスレーに乗せられた死骸となって下山する可能性が徐々に現実化するのを悟りつつある。 

一方で死を笑い飛ばし相対化しきっているセテムブリーニなどの登場人物から、哲学的な示唆を受けて、自らの思考を深め、死の可能性の中に甘い官能(女性の美しさなど)を見出し、成長していくのである。

 (おわり)

読書会のもようです。


いいなと思ったら応援しよう!

信州読書会 宮澤
お志有難うございます。