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サミュエル・ベケット 『ゴドーを待ちながら』読書会 (2021.2.12)
2021.2.12に行ったサミュエル・ベケット 『ゴドーを待ちながら』読書会のもようです。
私も書きました。
無力であること 待つこと
演劇なので、YouTubeの動画で見ながら冒頭部分を読んだ。
ゴゴとディディは友だちである。友だちであれば、たわいもない体験を、暇つぶしに話していられる。
この二人は、現在は、ホームレスである。
今、ここに存在するということ以外に、彼らには何も話すことがない。絶望的状況である。
だから、お互いのからだ痛みという、共通体験を話している。ゴゴは、足が痛むといい。ディディは、男性性器が痛いということをほのめかす。「小さいものでも野放しにしてはいけない」(P.10) 猥談をし始めると、その小さなものが痛むのである。(P.22) そうやってお互い自分の存在を確認している。病院の待合室にいる高齢者の会話のようでもある。
木を見て、首を吊ろうかという。首を吊ればぴんと立つ。首を吊った木の下には、マンドラゴラの木が生える。こんな陰惨なジョークも、なかなかテレビなどでは観ない。
全くもって、下ネタである。誰も笑わないような下ネタ。こんな下ネタでも言わないほうがマシなのに。
ゴゴは靴を脱ぎ、靴の中に何かを探す。ディディも被っている帽子の中を探す。中には何もありはしないが、探すという行為しか、することがない。何かがあるように信じたいし、何かを探すふりをしなければ、存在していることに耐えられない。
その後、ラッキーという男を売りに行くポッツォという男が現れて、ゴゴは、ポッツォの食べ残して投げ捨てた鶏の骨をもらおうとするが、その鶏の骨は、ラッキーのものなので彼に許可を得るようにポッツォから言われる。
プライドも尊厳もない飢えたゴゴは、ラッキーから鶏の骨をもらおうとする。しかし、ラッキーは何も答えない。ゴゴは、ラッキーが同意したということで、鶏の骨を拾ってむさぼる。それを見たディディは、ポッツォに向かって、こんなのは、人間扱いではなと怒り出す。
また、ディディは、荷物を持ったまま立たされているラッキーがかわいそうだという。だがポッツォはラッキーが追い出されたくないため、同情をひくべく荷物を降ろさないのだという。しかし、これからラッキーは、市場に売られに行くのだ。
その話を聞いているうちに、ラッキーは泣き出す。気の毒に思ったゴゴは、ラッキーの涙をポッツォから借りたハンカチで拭いてやろうと近づくが、逆に、ラッキーから、思い切りすねを蹴られる。
長くなるので以上である。無力なまま存在することの絶望が、グロテスクな滑稽さをもって演じられている。F=maという運動方程式から考えるに、無力であることは、重さも加速度もないことだ。この戯曲は、速度のない世界。すなわち無を描いている。
無力であれば、結局、何かを待つという受け身でしか存在できない。そういうことを描いているのかと思った。
(おわり)
読書会のもようです。
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