『罪と悪』を観てきた
年末から結構、映画館に映画を観に行っている。
こんなに映画館に足を運ぶのは、人生で初めてである。
なるべく、若い監督の邦画を観ていこうと思う。私もクリエイターの端くれ(←)、正直言って、人様の作品の粗探しをすると、ストレス解消&創作意欲が湧くのである。
こんなクソダサい演出してよく恥ずかしくねえなあとか、このシーンあの映画の丸パクリじゃねえか、とか、セットが中途半端で観念的で、基本的な生活感すら小道具で演出できないゴミみてえなシーンだなとか、この登場人物は、何にも造形がなくて案山子よりマシって程度だな、とか、心の中で毒づきながら見ている。
高良健吾主演、齊藤勇起監督・脚本の『罪と悪』を観てきた。
高良健吾のアメリカ西海岸のアジアンマフィアみたいなスタイリッシュなファッションが見どころである。
あらすじは、だいたい、『ミスティック・リバー』のような話である。監督も『ミスティック・リバー』を参考にしたという。
ここからネタバレである。
『ミスティック・リバー』のような話、というのは、幼馴染が性犯罪に巻き込まれ、その後、大人になって被害者とその友達だったメンツが再会するというストーリーの話である。
こういう映画は、邦画に結構多いし、成人誌の漫画なんかにも多い。
性虐待のトラウマを掘り下げれば、ミステリーになると思っている製作者の発想の安易さが、腹立たしいが、こういう映画は多い。
この映画も、そうである。
福井のとある田舎町。サッカー部の四人のクラスメートの男の子。
正樹という少年が、あばら屋に棲む、無職のDIYおじさんと仲が良く、よく遊びに行っているのである。このおじさん、まんが日本昔話のアテレコしていた常田富士男に似ている。
この正樹が水死体となって発見され、犯人は、常田富士男だと思った、同級生の春・晃・朔が、シャベルで、おじさんを殺し、そのおじさんの家に灯油をまいて、火をつける。
春は、親父が無職でアルコール依存っぽい、妹が何らかの事故で亡くなり、母も家を出てしまい、親父から暴力を受けている。
崩壊家庭の中学生、春は、全振りの善意で、共犯の他の二人(晃・朔)の罪を全部引き受け、殺人罪で少年院に送られる。
その後、春は、スタイリッシュな高良健吾となって出所して、地元で、不良たちをリクルートして、コンビニ見たいな何だかよくわからない、スパーとか、昔よくあった、スーパーだかコンビニだか、よくわからない、店ってあるでしょ、今ならセイコーマートっぽいっていうのかな、デイリーヤマザキのフランチャイズが、自家製野菜売って、パンも焼いてるみたいな、ついでに自分ちで握ったおにぎりも販売しているみたいな、そういうクセの強い店を経営していて、あと土建業や焼肉屋など手広くやって儲かっている。
地元のサッカーチームのスポンサーなどもやっている。
だが、高良健吾の服装は西海岸のマフィアというか、六本木にいる半グレみたいな、ファッションのことよくわからないけど、バレンシアガみたいなの着ている、Bボーイみたいな、舐達磨みたいな和彫みたいな柄のシャツを着て自宅も、『パラサイト 半地下の家族』みたいな、庭でBBQできるような、セキスイハウスのモデルハウスみたいな家に住んでいる。
クセの強いコンビニの2階に高良健吾の事務所があるのだけれど、調度品が西海岸のそれで、デイリーヤマザキの2階が、それなのか、マジかという、よくわからない作りである。
どんなスタイリッシュだからか、半グレの若者に慕われ、面倒見がよく、不良の更生を手伝いながら多角経営している。
地元のヤクザである、白山会とも、うまくつきあい、共存している。
地元の若者のギャングが、ヤクザの金を奪い、豪遊するという事件が起こる。盗んだやつを探して欲しいと、高良健吾がヤクザから頼まれる。
大和という少年が、その犯人である。その外国人と思しき母は、自宅で、メンズエステみたいなのを開業していて、客にヤクザがいて、ヤクザの裏金のありかを知ったのである。母が、息子にペロッてしゃべったもんだから、息子はヤクザの金を盗んで、キャバクラで豪遊して、店の中で金をばらまくのである。
一方、ギャングの金の出所を探しているのは、春と一緒に、常田富士男似のおじさんを殺した、同級生の晃である。彼は、父親が刑事で、自分も刑事になって、他県で暮らしていたが、地元の福井に戻った。
キャバクラで金をばらまいた少年ギャンググループの現場検証で、刑事の晃は、捕まるはずの大和が、上司の刑事(椎名鉄平)から、逃がされるという不可解な光景を目の当たりにする。椎名鉄平は、マフィアを泳がせて、共存共栄しながら治安を維持するという刑事なのである。
そしてその共存共栄は、ヤクザと警察の間でも築かれており、この街は、警察とギャングやヤクザが持ちつ持たれつで、なおかつ晃の親父も、刑事だった頃に、この共存共栄を利用していたと諭される。
椎名桔平は、この共存共栄の哲学を体現しているのである。
この椎名桔平の立ち位置。
大人の権力構造の世界をアニメの中でしたり顔で語ろうとする、押井守のアニメみてーな説教臭さだなとか、ツッコミながら見てしまった。
悪と共存共栄の哲学、何じゃそりゃ。
あるいは『ブラック・レイン』の『マイケル・ダグラス』を思い出した。
ニューヨークの汚職刑事、マイケル・ダグラス、汚職が大嫌いな日本のサムライ、高倉健、この二人が対立しながらバディを組んで松田優作を追いかける。そういうのやりたかったのかな?
田舎の陰湿な隠蔽体質で、悪を外に漏らさないで、共同体の中で泳がせて統治するというのが、椎名桔平の演ずる刑事のマキャベリズムである。
そして、田舎のマキャベリズムが、この映画のテーマなのだが、近代市民社会の論理とは、遠い。
法廷で、全ての住民が証言台に立って、真実を暴き、政治闘争を繰り広げるなんてことはない。
どこまでも隠蔽体質である。この隠蔽体質を四人の幼馴染は、苦しく思ってこの田舎で育ってきたのに、その隠蔽体質的土壌への批判がこの映画にはないのである。
刑事である晃のバディが、勝矢という俳優で、西郷さんみたいな体格のいい頭のチリチリパーマの男である。
警察車両の助手席でバディの勝矢がチーズバーガーを食べるシーンがあり、彼が「こういうとき、刑事モノの映画だと、注文のときにピクルス抜きでっていったのに、ピクルス入ってんじゃねえか馬鹿野郎、とかいうセリフ言うよな」みたいな言いながら、助手席でチーズバーガーをモグモグと完食するシーンがある。
運転している晃は、「俺、映画とか見ねえからわかんねえ」という薄いセリフで答える。
私はびっくりした。
何だこれ、パルプ・フィクションか? フランスでは、ビッグマックは、ル・ビッグマックというんだぜ、ル・ビッグマックだって、男性名詞、www ←トラボルタとサミュエル・L・ジャクソン、大爆笑。
私はこのシーンもあまり好きではない。
このようなタランティーノがやってもクソダサいシーン、なぜこの監督は、入れたんだ、なぜ我慢できないんだ、と私は思った。
勝矢という俳優は、ジョン・トラボルタに寄せていると言えなくもないのだが、不発だった。コメディリリーフっぽいので、ギャグで和ませるキャラである。そういう役どころとしてうまく機能していなかった。せっかくいいキャラなのに、もう少し彼に、面白い「語り」をさせるべきではないかと思った。
このシーン以外では、『太陽にほえろ』の刑事もの教則本のような、刑事と犯人の追いかけっこがあった。晃が、大和という少年を追いかけるシーンである。彼の家で張り込みして、見つけて追いかける。
勝矢も巨漢を揺らしながら追いかけるのである。ナラティブが持ち味のタランティーノから、走っていればアクションになるというスポ根刑事ドラマ『太陽にほえろ』に、とめどもなく退行する。
どん臭い刑事ドラマになっていった。途中、ストップ映画泥棒みたいなシーンが延々続く。
見ていて、あーあと思った。
もう書いていて疲れてきた。真犯人が明らかになる大どんでん返しがあるのだが、もうかなり無理矢理な、こじつけで謎解きがされて、暴かれた真犯人も、何だこれというご都合主義で、トラックに轢かれて死ぬ。
監督の力量を超えた、脚本と演出である。もっと予算と時間があれば、コントみたいなこじつけにならず、うまく撮れたのだろうが、謎解きはいいから、田舎の隠蔽体質を批判する何かを書いたほうがいいし、法廷劇にしろやと思った。
根本的な問題があって、それを隠蔽している映画である。
共存共栄の思想が何なのか、それを暴かなくては、映画の盛り上がりはないだろう。ほのめかされている色々はわかったが、そこから逃げれば、遡上してきた鮎を、四人で獲りに行くというクソダサい、ラストシーンで終わるしかないだろう。
劇中、高良健吾が「この街も変わらねえなあ」とつぶやくシーンがあり、観客からは、
「ハンバーグ!」
という合いの手が入ったとか入らなかったとか。
(おわり)