梶井基次郎『闇の絵巻』読書会(2024.11.1)
朗読しました。
私も書きました。
梶井基次郎の彫琢したもの
この間、松本清張原作の『天城越え』という映画をTVで見た。家出した中学生と遊女を演じる田中裕子が一緒に天城越えをする話である。思春期の家出少年のセックスに対する好奇心と嫌悪が作品の主題であった。『伊豆の踊り子』の天城越えにインスパイアされて、松本清張は、この小説を書いたそうである。
『闇の絵巻』のwikiを読むと、梶井基次郎が闇の中を歩いていたのは川端康成の『伊豆の踊り子』を校正するために彼の宿へ通っていたからだとあった。
三人の作家が天城峠を舞台に作品を描いているが、それぞれにアプローチが違う。
『岬の港町へゆく自動車に乗つて、わざと薄暮の峠へ私自身を遺棄された』(P.229)という一文は、体調がすぐれないことで自暴自棄になって天城越えを決行したことを指している。この行動の顛末は『冬の蝿』に詳しい。
この作品は『絵巻』とあるだけあって、まるで絵画のようである。繊細なタッチで絵の具を重ねて絵を描くように、梶井は慎重に言葉を選んで文章を組み立て、段落を重ねている。
川端作品も言葉の選び方が繊細で、私は美しい文章だと思う。この美しさは、水墨画のような簡素さでもって、花鳥風月の美しさを独自の透明感で描いているように感じる。
梶井基次郎の文章も美しいが、結核という病を抱えた自分を、なんとか客観的になって見つめようとする苦心が伺える。極度に内省的である。かといって、辛気臭くならないように、同情をかうような甘ったれた口を慎むように、節度のない自暴自棄を嗜むよう自問自答しながら言葉を選んでいる。
私たちがこのSNS全盛の時代に触れているのは、こんな自問自答の行き届いた繊細な言葉ではない。思いつきで吐いた雑でファストな日本語である。多くの場合、自分の言葉ですらない。どこからか拝借してきた他人の言葉である。
川端と梶井が『伊豆の踊り子』を共同制作したという事実は、私の中で非常に重たい。私は彼らの作品をなんとなく、流し読みして済ましているが、彼らが、文学によって近代の日本語を作ってきたのは紛れもない事実である。川端や梶井のような文章を書くのは、現代ではかなり困難である。映像メディアが主流になり、言葉によって想像力に働きかける文学的営みは著しく退潮した。梶井の作品を読めば読むほどに彼らの世代の文学者が命を削って彫琢したものの重さをひしひし感じるとともに、文学の衰退を感じざるを得ないのである。
(おわり)
読書会の模様です。