ユゴー『レ・ミゼラブル 第五部』読書会 (2021.6.25)
2021.6.25に行ったユゴー『レ・ミゼラブル 第五部』読書会のもようです。
5ヶ月に渡って読み継いで、ようやく完結しました。
ご参加いただいた皆さん、参加していないけど、一緒に読んでいたモグリの皆さん、お疲れ様でした。
一緒に読めて、カ・ン・ゲ・キ
自己犠牲と自由
(引用はじめ)
市民諸君、今日何が起ころうと、勝っても、負けてもわれわれがやろうとしているのは。革命である。火事が町全体を照らすように、革命は人類全体を照らす。政治的観点からすれば、ただ一つの原則があるだけだ。つまり、人間の人間に対する主権である。この自己にたいする自己の主権が〈自由〉と呼ばれる。この主権が二つ、あるいはいくつか結合するところで〈国家〉が始まる。しかしこの結合によって、なんの権利放棄も起こらない。だがおのおのの主権は、共通の権利をつくるために、自己をいくらか譲る。その量は万人が同じである。各人が万人にたいして行う譲歩の同一性が〈平等〉と呼ばれる。共通の権利とは、各人の権利の上に輝く万人の保護に他ならない。この各人にたいする万人の保護が、〈友愛〉と呼ばれる。集合するすべての主権の交差点が、〈社会〉と呼ばれる。交差は結合だから、この交差点は結び目である。そこから社会的連帯というのものが生れる。ある人びとは社会契約と言っているが、同じことで、契約という言葉の語源は、連帯という観念からできたものである。 (P.44-45)
(引用おわり)
これは、バリケードの政治的リーダー、アンジョルラスの演説である。語られていることは、ジャン=ジャック・ルソーの『社会契約論』の内容そのままだ。自己に対する自己の主権が〈自由〉である。
ジャン・ヴァルジャンは貧困と無知ゆえに一つのパンを盗んで19年間の懲役を課される。小さな犯罪が長編小説の全ての始まりである。
貧困と無知は、一庶民であるジャン・ヴァルジャンから自由を奪った。
だから、民衆が解放されるには、経済的な自立と、自己の権利に関する知識が欠かせない。
ルソーが『社会契約論』の冒頭で述べているように、人間は自由なものとして生まれたのにも関わらず、見えない鎖に繋がれており、知らず知らずに、奴隷状態におかれている。
しかし、実際にジャン・ヴァルジャンを救ったのはルソーの社会契約思想とその帰結である共和主義革命のイデオロギーではなく、ミリエル司教の慈悲だった。
彼は、司教の慈悲のおかげでミゼラブルな状態から脱したことで改心し、コゼットをはじめとする同じようなレ・ミゼラブルな人たちを無償の奉仕で救おうとした。そのレ・ミゼラブルの中にはジャヴェールも入っていた。
共和主義者は暴力を手段として正当化するが、ジャン・ヴァルジャンは非暴力を貫いた。
ルソーの思想の怖いところは、やはり民衆の暴力を肯定していることだ。
革命が暴力で成就した以上、近代社会のあらゆる政治的正当性は、暴力に由来せざるを得ない。
国家は、暴力の独占装置だが、国家の暴力に民衆が暴力で反抗しても、バリケードの中で惨めに死ぬだけだ。
『レ・ミゼラブル』を通読して、非暴力を貫くジャン・ヴァルジャンの存在は、おとぎ話としか思えなかった。
また、現世への執着を手放すために、コゼットを「失い直そうとする」(P.450)ジャン・ヴァルジャンの宗教的とも言える自己犠牲も、私の理解を超えていた。
しかし、その自己犠牲こそが「義務」なのだろう。
カントが主張するように、義務を果たすことでしか、人間は自由になれない。
「暴力なしに、人は自由を実現できるのか?」という政治哲学の「問い」がある。
その「問い」すら立てようともしないリアリズムの世界に、私は、生きている。
しかし、ユゴーは、キリスト教的な自己犠牲の義務を、自由の実現の条件として、力強く描いている。
自己犠牲が、自由を実現するのだとしたら、カミュが『ペスト』のリウーを通して描いているように、人間解放の、自由のための闘いは、『際限なく続く敗北』である。
義務に忠実であれば、あるほど、ずっと敗北し続けることとになる。
それでも人間は自由のために、明日も闘わなければならない。
ジャン・ヴァルジャンの墓石は、際限なく続く敗北の一里塚のようだった。
(おわり)
読書会のもようです。