志賀直哉『冬の往来』読書会(2023.1.13)
2023.11.13に志賀直哉『冬の往来』読書会を行いました。
私も書きました。
薫さんの「顰め面」が意味する二つの主題
『実は僕はこの話から二つの主題を見出している』 (P.245)
この二つの主題=テーマがなんなのか、明かされていないのだが、私なりに考えてみた。おそらく、この二つのテーマは、最後の薫さんの顰め面に含意されている。
一つ目のテーマは、薫さんによる、家制度と姦通罪という日本の封建的な社会システムへの戦いである。
薫さんの父は、渡仏中に、ルソーの『社会契約論』を最初に訳した中江兆民の知己を得て、その後自由民権運動にも関わったリベラルな人物だった。ここが重要である。薫さんの父は、日本の社会の封建的な名残、つまりは家制度の自明性を、手放しで認めているような人間ではない。岸本は、その父の弟子であり書生のような学生だった。岸本も、十分リベラルな人間で、家制度や姦通罪の封建制の矛盾を、ある程度は、自分の言葉で批判できる人間だったろう。
リベラルな岸本は、薫さん自身が、良人と話し合って、イプセンの『人形の家』のノラよろしく、家出することもできると思った。これは、薫さんのみならず当時の日本の女性にハードルの高い難問題である。
問題は別次元だった、薫さんは、岸本の子を身ごもっていた。岸本は、薫さんが、仮に、身ごもっていなければ、彼女の家出には、不倫が姦通罪という罪であるとはいえ、彼女には、一人の人間として自己の意思決定権があると考えただろう。彼女は、自分の意思決定の正統性を、良人に認めさせることができる。実際、良人は、薫さんとの離婚は認めている。だがしかし、身ごもってしまえば、お腹の中の子は、法律上は、薫さんの良人の子である。
私は、この子供の親権に関する部分を読んでいて、私は、トルストイの『アンナ・カレーニナ』を思い出した。アンナも世間体のために離婚したがらない夫、カレーニンのために苦悩していた。
とりわけ、アンナが、苦悩した点は、離婚したらヴロンスキーとの間にできた息子の親権が、カレーニンに移ってしまうとことである。不倫の結果、愛人と二人うしろ指さされて、社交界から排除されてもアンナには耐えられるが、離婚して、愛人との間にできた息子を無責任に手放すことは、母親としての彼女には、できなかった。このことで、アンナは、良人と愛人の板挟みになってしまった。リベラルな自己決定権を行使すれば、母として、我が子を捨てることになる。離婚しなければ封建制に屈することになる。このジレンマに悩み、やがて、アンナは、愛人の浮気を疑ったあげく絶望して、命を自ら絶った。
アンナと同じように、薫さんもきっと、雪子を捨ててアメリカに渡ることはできなかったはずである。
岸本が、誤算だったのは、妊娠を想定せずに、薫さんに難問題を自己解決を迫ったことだった。この誤算こそが、姉の話を聞いた中津が、岸本を男女の問題について世間知らずだと批判するゆえんである。薫さんが「自身の領分内」の問題を自己で解決できるほど、リベラルな自己決定権を発揮すると信じていたことも、当時の日本の平均的な女性の意思決定能力からは逸脱しているだろうが、自然の摂理(望まない妊娠)も、その子供の親権の問題も、岸本はやはり想定すらしていなかったのである。そのへんは彼は、迂闊であった。結果、妊娠という問題に白けた態度を顕にした岸本に、上辺はリベラルなイケメンだったヴロンスキー同様、事態への対応能力がないのをみてとって、薫さんは岸本の子を身ごもったまま良人との家庭生活に甘んじたのである。
つまり岸本と薫さんの恋は、父の葬式で焼けぼっくいについた『お葬式』ムーヴであり、通夜のもたらした躁状態ゆえのラブ・アフェアー(運命の悪戯)として終わったのである。
もう一つのテーマは、中津がどこまで、薫さんを理解しているのかということだ。
中津が薫さんに恋に落ちたのは、薫さんの現存在(現実存在)のバイブスに触れてのことだった。
中津は、薫さんに初対面から好意を持っていた。年上であり、ふくよかでもあり、人妻でもある薫さんは、中津の琴線に触れるような条件を有していなのだが、それでも、恋に落ちたのだ。
薫さんは、世界に立体感を持って存在していたということである。それは。「僕は今まであの人を余りに平面的に見ていた。それは岸本があの人の妊娠に幻滅を感じた事が余りに平面的な見方からであったと同様であると考えた」 (P.239) というセリフによく表れている。
薫さんの現存在から溢れ出すバイブスが、ビンビン中津の神経の琴線をかき鳴らしたのである。そのバイブスの核心は、薫さんが自由な意思決定をする人格であり、勇気という卓越性を秘めているということである。そのことが彼女の現存在に立体感を与えている。
中津の姉は、学生に毛が生えたようなふわふわした弟の薄っぺらい人格を、はっきり見破って小馬鹿にしている。そのことは、「薫さんという方は、お前さんなんぞが考えている、只それだけの方じゃあ、ありませんよ」 (P.234)というセリフに、これまた薫さん卓越性がよく表れている。さばけた姉は、薫さんの現存在をしっかり捉えて、敬意を表することを惜しまない。同性が認めるのは、よっぽどである。姉から薫さんの恋愛事件を聞いて、彼は、ようやく薫さんの現存在のバイブスの在り処である、秘められた熱情に気づいたのたのだった。
薫さんは世間に揉まれた人である。行きがかりで許嫁の兄と結婚し、岸本の子をうやむやにして家庭生活に復帰した薫さんは、その熱情よって、日本の封建的な世間と素手で格闘した人だった。岡本かの子の『食魔』の夫妻のように、狂言のでんがんでんがんを地獄の音楽として聞きながら一遍歩いてきた人間が、薫さんなのである。
しかし中津に、薫さんの「でんがんでんがん」がわかろうはずはない。『食魔』の夫妻が鼈四郎を評したように、中津は壊れやすい人間の芸術品にすぎない。つまりはワナビーである。だから、彼の人格は、薫さんの現存在を作物に表現できるだけのの卓越性に達していない。彼が卓越性において伍しているなら、おのれの愛を薫さんに打ち明けただろうに。
自分の熱情を殺して、子供を選び、もはや愛してはいない良人との家庭生活に甘んじたという薫さんの苦々しい心理が、薫さんの最後の孫を抱えながらの「顰め面」に表れた一つ目のテーマだ。
そして、二つ目のテーマは、薫さんへの愛にアピアランス(形)を持たせることのできなかった中津の芸術家としての卓越性の欠乏を、はからずも薫さんの「顰め面」が暴き立てているということである。
中津の人格が、冬の往来での薫さんの意図せぬ不随意な「顰め面」によって間接的に批判された。
どこかで意の通じている中津と薫さんの無意識の攻防を、聞き手の私が目の当たりにして、悟ったというのが、本作のまことに気の利いたオチなのである。
(おわり)
読書会の模様です。