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川端康成『弓浦市』読書会(2023.2.3)

2023.2.3に行った川端康成『弓浦市』読書会の模様です。

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私も書きました。

戦前の國體の崩壊が、婦人の精神の崩壊として描かれている
 
夫人が嫁いだ沼津の神社とは、どこのことか調べてみたが、三嶋大社のことではないかと思う。

戦後、GHQの神道指令で、神官は廃止された。それまでは神官は国家に仕える公務員だった。三嶋大社は戦前、官幣大社であった。朝廷から神官に幣帛(へいはく)が配布され、それを祭祀において奉献するから官幣大社という。戦前には、植民地であった台湾や朝鮮にも官幣大社が造営された。(今は廃止されている)

そして、三嶋とは、伊豆大島や三宅島などの伊豆諸島を指すそうである。
三島由紀夫のペンネームも三島から見た富士山の雪に由来するらしい。
 
GHQ神道指令により国家神道が解体されて、この婦人の嫁ぎ先の神社は、没落したのである。婦人は東京に逃れた。指輪も外している。
 
この作品のポイントは、先客の三人いる座敷と、廊下に出てから座敷から障子で隔てられてからの「二つの世界」が描かれていることである。
 
座敷にいるときは、座卓を隔てて、先客の三人は聞くともなく、婦人の生々しい話に、耳をそばだてているのがわかる。

ここでは婦人も、先客三人の存在を気にしながら、遠慮しながら香住との共通の思い出を語っている。

座敷の世界は、彼らの戦前の共通世界である。
 
(引用はじめ)
 
しかし、回想という世界で、香住は婦人客と同じ世界にはいってゆけぬもどかしさがあった。その国の生者と死者とのような隔絶である。(P.276)
 
(引用はじめ)
 
私が思うに、この「回想という世界」は、戦前の国家神道を精神的柱とした國體のことである。
 
國體とは、現在から天照大御神の神代までの時間的垂直軸と、アジア全域にひろがる水平的拡大発展性からなる戦前の日本の世界観である。國體は戦前の日本が軍国化するなかで肥大化した世界観で國體護持や國體の本義が政治的動員のスローガンとなった。
(参照 丸山眞男『超国家主義の論理と心理』 岩波文庫)

その國體を共通世界を条件として、座敷での婦人の回想は一応のリアリティを保証されている。

「回想という世界」の象徴が「弓浦市」なのである。よって、戦前の國體=弓浦市である。
 
もう一つの世界は、香住が婦人を廊下に見送りに出てから現れてくる。
 
 
(引用はじめ)
 
婦人客が急に体つきをゆるめるのに、香住は自分の目を疑った。いつか抱かれたことのある男に見せる体つきなのだ。(P.277)
 
(引用おわり)
 
ここからは、香住と婦人には、なんの共通世界もなくなる。香住にはリアリティのない、婦人の妄想としか言えないような個人の語り(ナラティブ)が展開される。
 
厳密に言えば二つの世界ではない。

弓浦市が存在しなかったオチによって、國體の崩壊を描いているのである。

つまり、この物語では、戦前の國體の崩壊が、婦人の精神の崩壊として描かれているのである。
 
戦前の國體の中には、鹿屋の特攻隊や沖縄戦や長崎での原爆や死者もいることが、最後に暗示されている。崩壊した國體は、もう存在しないのだから、今では戦死者たちだけが取り残された世界である。


婦人は廊下に出て障子を閉め、座敷の世界と切り離された途端に、崩壊した國體の幻想とともに、つまり弓浦市とともに、死者たちの世界にいってしまったのである。そして死者たちだけの世界について語りだすのである。
 
婦人の語る妄想は、死者の怨念を語っているのである。

廊下から玄関の見送りのあいだに語られる婦人の妄想は、香住しか聞いていないので、他者の視線や、客観性を欠いており、なんのリアリティもないのだが、リアリティが喪失していることによって、さらに、婦人と香住との共通世界の崩壊が顕になる。
 
婦人が帰って、座敷で客の三人と、調べてみると『弓浦市』は、存在しなかった。
 
ここで、ダメ押し的に、國體の崩壊と、その中でのリアリティの喪失をはっきりと顕になる。
 
しかし、香住もまた、弓浦市=國體の中に、この婦人とともに、確かに、存在していたのである。
 
弓浦市に存在していたリアリティは、婦人の記憶の中にしかないのだが。
 
戦後の日本は空虚なのだが、戦前の國體の中に取り残された死者たちも空虚である。
 
失われた30年とは、共通世界おけるリアリティの喪失であり、現代日本も、もはや弓浦市になりつつある。
 
現代日本人の大半は、この婦人みたいに孤独で、居場所がなく、思い出話ばかりである。
 
(おわり)

読書会の模様です。


お志有難うございます。