太宰治『鷗』読書会 (2022.1.28)
2022.1.28に行った太宰治『鷗』読書会のもようです。
私も書きました。
『日本の近代精神の終わり』
『鷗』の読書会を行うにあたって、wikiで調べたら、戦地から小説を送ったのが田中英光であると知った。
彼が、戦後の太宰の情死後に、墓の前で後追い自殺した作家だとは知っていた。
しかし、wikiを読むまで、田中英光が戦地から『鍋鶴』という作品を送って、太宰が『鷗』に書かれたとおり、その作品の雑誌掲載のために奔走し、田中の創作活動を精一杯励ましたという経緯を知らなかった。
田中英光を励ましたことで太宰のこさえてしまった文学的な因果の恐ろしさを思わずにいられなかった。
二人の関係は、作中で引用されるファウスト博士とメフィストフェレスの共依存関係に似ている。
私は最近、自家中毒ということをよく考えるのである。
医学上の自家中毒とは意味が違う。自分の演じていたキャラクターに自分が侵食されていくという、自己欺瞞の膨張によって、人格破綻していくことを、私は自家中毒と呼んでいる。
太宰は小説を書きながら自分の作り上げた太宰治自身になっていったのである。それが人格破綻でなくなんであろうか?
作家は、どうしても創作したものに、自分自身を寄せていく。
自分の表現したものそのものになってしまう。
筆を運びながら、作品の中で、客観的に描き出した自分の姿に、その後、主観的に寄せていくのである。
(引用はじめ)
「あなたは一体、」と客も私の煮え切らなさに腹が立って来た様子で語調を改め、「小説を書くに当ってどんな信条を持っているのですか。たとえば、ヒュウマニティだとか、愛だとか、社会正義だとか、美だとか、そんなもの、文壇に出てから、現在まで、またこれからも持ちつづけて行くだろうと思われるもの、何か一つでもありますか。」
「あります。悔恨です。」こんどは、打てば響くの快調を以て、即座に応答することができた。「悔恨の無い文学は、屁のかっぱです。悔恨、告白、反省、そんなものから、近代文学が、いや、近代精神が生れた筈なんですね。だから、――」また、どもってしまった。
「なるほど、」と相手も乗り出して来て、「そんな潮流が、いま文壇に無くなってしまったのですね。それじゃ、あなたは梶井基次郎などを好きでしょうね。」
(引用おわり)
丸山真男は『近代日本の知識人』のなかで戦後の知識人を自責の念で連帯させた「悔恨の共同体」のことを解説していた。太宰はすでに戦中に「悔恨の共同体」を先取りしてリードしていた。悔恨の文学が太宰であった。
だからこそ、戦後にいち早く、「悔恨の共同体」のアイコンとして、時代の寵児になったのだ。
戦後文学から悔恨がなくなって久しい。悔恨がないのだから近代精神もない。
日本の近代文学が終わったと言われて久しい。それは日本の近代精神の終わりである。
日本の近代の歴史的連続性を失って、日本人はみんな途方に暮れているのかもしれない。
太宰が今も漱石や鷗外とは違った意味で、熱心に読みつがれる理由は、戦後を生きる日本人が忘れてはならない「悔恨」を読者に押し付けて、日本の近代精神を、なんらか思い出させてくれるからだ。
「俺たち終わっちゃったのかな~ コマネチ!」なんて、甘ったれた口調で茶化しながら、日本の近代精神の終わりを自覚して途方に暮れている、キッズリターンなおっさんの私も、もはやはっきりと日本の戦後史に埋没したてめえの人生への悔恨のうちに生きるしかないのだが、まだまだ決心がつきかねる。
(引用はじめ)
汽車の行方ゆくえは、志士にまかせよ。「待つ」という言葉が、いきなり特筆大書で、額ひたいに光った。何を待つやら。私は知らぬ。けれども、これは尊い言葉だ。
(引用おわり)
「待つ」という言葉は、いったい何を待つのか?
終わってしまった近代日本精神の復活を、だろう。
近代日本を、行き先わからぬ「汽車」に例えたのだろう、「志士」とあるから、彼らの維新の志士のこさえた近代精神の復活を「待つ」、きっとそうだ。
そのためには、悔恨を水たまりの中の一片の雲のように澄ませて、自家中毒しないよう、やっぱり待たなくちゃいけない。
太宰の文章は、甘ったれているが、その甘えは私のものであり、自家中毒の甘さであり、だからこそ、心に沁みる。
(おわり)
読書会のもようです。