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ラディゲ『肉体の悪魔』読書会(2024.7.19)
2024.7.19に行ったラディゲ『肉体の悪魔』読書会のもようです。
私も書きました。
『肉体の悪魔』の本歌取りとしての『金閣寺』
三島由紀夫は『ライバルはラディゲだ』と宣うほどにラディゲに心酔していた。
『肉体の悪魔』の冒頭、気のふれた女中が奉公先の屋敷の屋根に登ったまま、降りてこないというエピソードがある。最後に、狂女は屋根から落ちてガラス張りの庇を派手に壊しながら石段に叩きつけられる。
これを読んで思い出したのは『金閣寺』の冒頭で、主人公溝口にストーキングされて告げ口した美少女有為子が、恋人の脱走兵と金剛院に逃げ込み、憲兵隊に包囲されて、無理心中させられるというエピソードだった。
(また、川端康成の『雪国』の最後に葉子が火事で燃えさかっている繭蔵から落ちてくるシーンも思い出した。)
(引用はじめ)
僕が根気よくこうした挿話を書くのは、他のどんなことよりも、これが、戦争という異常な時期を理解させ、またものごとの絵画的な光景よりもその詩情の方がどんなに僕の胸を打ったか理解させてくれるからである。(P.25)
(引用おわり)
『金閣寺』は三島自身によれば『鷗外プラス、トオマス・マン』ということなのだが、むしろ『肉体の悪魔』の本歌取りであると思った。戦時の非日常が、青春の日々と重なった若者たちが価値観をいかに麻痺させるかを描いている。
ただし、金閣寺を焼くのも、出征兵士の妻をNTRするのも、詩情にあふれこそすれ、革命的ではない。自意識の範疇では、革命的なのだろうだが、溝口も『肉体の悪魔』の主人公も、世間的に言えば、存在していないに等しい人物であり、せいぜい彼らがお世話になった周囲の人に迷惑をかけただけである。
工業化が進み近代社会が形成されるにつれて、凄まじいまでに人間の画一化、非人格化が進み、その反動で、天才の現象がありがたられるようになった、とハンナ・アーレントは指摘している。(『人間の条件』ちくま学芸文庫 P.336)
一方、近代が成熟するにつれて天才という概念は手垢のついた商業的なものになった。
ラディゲは神童と言われることを拒否していたそうだが、彼の天才よりも早逝した事実のほうが、彼の感覚過敏が取り柄だけの若書きの作品よりも、彼のプレゼンスを偉大なものにしているのである。
一物で障子を破る小説が生み出した太陽族もラディゲの末裔である。戦前の価値の崩壊に対する若者の反動形成である。
「ねえ、怖ろしいことになっちゃったんだ。三日のうちに、僕は神の兵隊に銃殺されるんだ」
(三島由紀夫 『ラディゲの死』 新潮文庫)
(おわり)
読書会の模様です。
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