トルストイ『戦争と平和 第四部第一篇、第二篇』読書会(2024.4.19)
2024.4.19に行ったトルストイ『戦争と平和 第四部第一篇、第二篇』読書会の模様です。
解説しました。
私も感想文を書きました。
大地の潜熱としてのジャガイモ
NHK BSでYBC山形放送の制作した『三つめの庄内~余計者たちの夢の国~』というドキュメンタリーを見た。戦後帰国(8割はソ連侵攻ののち満州で死去)した庄内出身の満州開拓団の人たちが、青森の六ヶ所村などに再度開拓団として移住したという話だった。
後期高齢者となった移住者の女性が語っていたことが印象的だった。開拓して何年かしてもご飯にジャガイモが入っていたが、ジャガイモが入っていて、よかったのだという。それまでは山菜などで食いつなぎ、ひもじかった、と。だいたいこんなようなことを言っていた。
(引用はじめ)
「ジャガイモがなんより大事じゃけぇ」彼はくり返した。「食ってみんさい、ほれこんなふうに」
ピエールはこれ以上美味いごちそうを、いまだかつて食べたことがないように感じた。
(五巻 P.369 第四部第一篇12)
(引用おわり)
寒冷地でも根菜は栽培できる。霜が降りると葉物野菜や果物はうまく生育しないそうだ。満州を開拓した人々はシベリアのロシア人ほど、農業が上手くなかったそうだ。岩波文庫版のコラムに書いてあった気がする。
プラトン・カラターエフは何者か? 私は彼をロシアの自然と一体化した人物だと思う。自然の大きな循環過程に一体化している人物である。シヴィライゼーション(文明化)されていない未開の部族のようなものだ。
(引用はじめ)
実際、族長たちは、地上における個人の不死も、魂は永遠であるという確信も別に必要とせず、死は親しみやすい夜のように彼らのもとに訪れ、静かな永遠の休息は「歳月に満ちたよき老年に」訪れるのである。
(ハンナ・アレント『人間の条件』ちくま学芸文庫 P.164)
(引用おわり)
トルストイは、アンドレイのドイツ観念哲学を地で行くようなシヴィライズドな死生観に、プラトン・カラターエフの生命観を対置している。それは上記の族長のように自らの生と死を自然の巨大な循環過程の中に収めて理解する考えである。アンドレイは意志を持ち出して、現象外側での存在可能性としての死を発見したが、プラトンには現世の自然過程への強い信頼がある。彼の言葉は自然の循環過程と一体化しているため、片言隻句を切り離すと意味をなさなくなるのである。プラトンの人生は、皇国史観の礎となる高天原に対置された柳田國男の山の人生みたいなものだ。
モスクワの壊滅と共に 文明化され国家化されていたアンドレイという人物は亡くなったが、国家の存亡と別に民衆の生活があり、地熱に育まれるジャガイモのように自然の中にひそやかに息づくプラトン・カラターエフの生命が、モスクワ陥落後のピエールの精神的な拠り所になっていったのだ。
(おわり)
読書会の模様です。