ヘミングウェイ『移動祝祭日』読書会(2023.6.30)
2023.6.30に行ったヘミングウェイ『移動祝祭日』読書会のもようです。
私も書きました。
「ヘミングウェイは、太宰治に似ている」
素敵な回想録だと思いながら読んだものの、ヘミングウェイは、厄介な人だと思った。
ガートルード・スタインと疎遠になった理由がP.170に書いてある。どういう状況なのか知らないが、スタインのごく私的な会話がたまたま耳に入ってしまい、いたたまれなくなって疎遠になったという。
(引用はじめ)
だが、身内の人間となると、たとえ彼らに対して見ざる聞かざるの態度を貫き、彼らの送ってよこす手紙を無視したとしても、手ひどいしっぺ返しをいろいろ覚悟しなければならない。
(P.155~156)
(引用おわり)
ヘミングウェイも、この『移動祝祭日』のあらゆるところで、昔の友人にしっぺ返しをしている。スタインと疎遠になった理由を、わざわざスキャンダラスな匂わせを交えて書くのも、婉曲的なしっぺ返しのように、私には思える。
ヘミングウェイのマチズモには、私はちょっとついていけないところがある。健啖家で、命知らずで、なおかつ女性に甘えずにはいられない、そんな男らしさが、力みかえっているようで、読んでる方も、力が入ってしまう。
エヴァン・シップマンのことを好いているのは、『リラのエヴァン・シップマン』(P.184)でよくわかった。貧しくても感傷的ではなく、心置きなく文学談義ができて、でも、適度に情に厚くて、ユーモアセンスもあって、パリでの生活に分相応に溶け込んでいる20歳の若者である。肩肘張った25のヘミングウェイがパイセン風を吹かせて、付き合える若者だったのだろう。エヴァンが私生活でも親しくしているリラのウェイターを持ち出して、フィッツジェラルドのフランス人ウェイターへの偏見への面当てにするシーン(P.236)を読むと、同じ作家としてのフィッツジェラルドの無神経を批判しているようにみえる。
フィッツジェラルドはもちろん、パリでの友人は、皆、心許せることのない潜在的なライバルだった。
ヘミングウェイは、スコット・フィッツジェラルドの彼女であるゼルダに「タフガイ気どり」といって嫌われていたそうだが、この平凡な批判は的を射ていると思う。
彼が後年のエッセイの中で、友人ににしっぺ返しをするところは、わりかし、日本の私小説家に似た、陰気な振る舞いだと思った。とりわけ、フィッツジェラドのイチモツの話など、嫌味だった。交友関係を創作の材料にして、なおかつ自分が演じたキャラに飲み込まれていった点では、ヘミングウェイは太宰治に近い作家だと思う。
志賀直哉のほうがヘミングウェイなんかよりも、よほどタフガイだし、友情に厚い。
パリの文学的青春時代を華やかに回想した作品でありながら、ヘミングウェイの隠しおおせていると思っているひ弱さが、ところどころに漏れ出していて、少し、痛々しい気がした。
(おわり)
読書会のもようです。