ユゴー『レ・ミゼラブル 第二部 コゼット』読書会 (2021.3.26)
2021.3.26に行ったユゴー『レ・ミゼラブル 第二部 コゼット』読書会の模様です。
私も書きました。
やっぱり、新約聖書
(引用はじめ)
イエスは彼らの偽善を見抜いて言われた、「なぜ私を試すか。デナリ銀貨を持ってきて見せなさい。」持ってくると、言われる、「これは誰の肖像か、まただれの銘か。」「皇帝(カエザル)のです。)と彼らが言った。イエスは言われた、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返せ。」彼らはイエスに驚いてしまった。
岩波文庫 『福音書』 塚本虎二訳 P.49 マルコ福音書 第12章15-17節
(引用おわり)
上記は、納税問答といわれる。ユダヤ教徒が異教徒であるカエザルに税金を納めるべきかという意地悪な質問に、イエスが答えた場面である。この章は、政教分離についてのキリスト教の見解を示しているといわれる。当時のイスラエルはローマ帝国の属領であった。イスラエルでは、ユダヤ教が信仰されているが、支配しているのはローマ皇帝である異教徒のカエザルだ。
世俗の権力者と頭の中の信仰の対象である神は、どっちの方が大切なのか? 納税問答は、それを意地悪に問うている。イエスは、世俗では世俗の権力者が決めた法に従って、税金を納めろ、世俗の貨幣には皇帝が刻印されているのだから、とほのめかしている。ただ、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返せ。」というのは、答えているようで答えていない、イエスの言葉は、知恵を使って、世俗の法律と、宗教的戒律をうまく両立させろ、といいたかったのだろう。
修道院で死んだクリシフィクシオン尼を祭壇の地下室に埋葬するのは、世俗の法律に反する違法行為だ。でも、修道院の関係者は、世俗の法律に抗っても、尼僧を祭壇の下に埋葬したい。
しかし、亡くなっても人間のご遺体は、世俗を支配する国家権力の法律の支配下にある。要するに、ご遺体の埋葬の仕方は国家が決めている。
(引用はじめ)
修道院では、「政府」というものは、教権への干渉、それも常に議論の余地のある干渉に過ぎなかった。まず、戒律第一で、法律などは二の次だ。人間よ、好きなだけ法律をこさえるがよい、だがそれは君たちだけのものにしておきたまえ、君主(カエサル)への貢ぎ物は、あくまでも神への貢ぎ物の残りに過ぎない。君主も教義の前では無力である。(P.459)
(引用おわり)
この修道院は世俗から徹底的に隔離されているので、キリスト教の戒律で世俗の法律をねじ伏せた。
結局、尼僧は修道院の祭壇の地下室に埋葬され、その代わりジャン・バルジャンが棺に入れられて、国立墓地に埋葬され、その後、フォーシュルヴァン爺さんに救出された。王政復古後の国王政府では、国王もクリスチャンなので、法律守らなくても、大目に見られるんじゃないか、という甘い見込みがある。これが、無神論的革命政府だったら、キリスト教の神なぞ認めないから、厳重に処罰される可能性がある。そもそも修道院が破壊・解体される可能性がある。
ノートルダム大聖堂は、革命で破壊され、ユゴーの『ノートルダム・ド・パリ』の成功によってリバイバルした。カミュやサルトルの実存主義的無神論を背景とした小説を読んでフランス文学に親しんだ私としては、ユゴーの宗教右翼っぷりは、若干ひくのである。
王政復古後の修道院と世俗の対立が、この小説の重要なプロットの背景になっている。しかしこのプロットを説明するために、ユゴーは、細々とした修道院の暮らしぶりを描写している。新約聖書を読んでいなければ無味乾燥な描写であるが、読んでいれば、それなりにわかる。この「それなり」にがないと、挫折する箇所だ。欧米文学を読むのなら、やはり福音書は読んでおきたい。
(おわり)
読書会の模様です。