『プリティー・ウーマン』をみた
リチャード・ギアとジュリア・ロバーツの『プリティー・ウーマン』をみた。
映画を観たとき、「観た」と書いていたのだが、「みた」とひらがなで表記した方がいいかな、と最近思った。「観た」だと堅苦しい。映画館で観たというのなら観ただろうが、録画したものをTVで「みた」である。
リチャード・ギアは、『愛と青春の旅立ち』の士官候補の初々しい印象とは全くちがう演技を見せていた。とても自信に満ちた余裕のある演技である。
そして、眼差しに男の色気を感じさせた。それは、『プラダをきた悪魔』のメリル・ストリープのたたずまいを思い出させた。目の表情だけで、雄弁に、富裕層のいろいろ語っていた。
街の娼婦(フッカー)であるヴィヴィアン(ジュリア・ロバーツ)は、男を追いかけてハリウッドにやってきて、生活に行き詰まり、ルームメイトのキットに誘われ、街頭で春をひさぐようになる。
(春をひさぐ。古語「売春する』)
ある日、M&Aの事業に携わる大富豪エドワード(リチャード・ギア)が、友人に借りたスポーツカー(ロータス・エスプリ)で立ち往生していた。1速からシフトチェンジしようにもギシギシいって言うこときかないのである。
ヴィヴィアンは、彼の代わりに運転して、そのまま彼の投宿する高級ホテルのスイートルームに誘われ、1週間泊まることになる。(3000ドルで買われる)
ヴィヴィアンは元カレの影響で、車運転が得意で、ロータス・エスプリのシフトチェンジがうまい。このへんは、村上春樹の『ドライブ・マイ・カー』の運転手みさきが、シフトチェンジが上手いという設定を思い出した。
車の運転が縁ではじまるシンデレラストーリーである。
話の筋はさておき、気になったシーンについてコメントしたい。
ポロ大会
欧米では大富豪はポロをやるらしい。馬を4頭以上所持していないと、プレーできないらしい。
エドワードは、ヴィヴィアンを、自らのスポンサーするポロ大会に同伴させる。
日本でもでっかいポロのロゴをあしらったいわゆるポロシャツがある。
ポニーやロバやアルパカなどでポロっぽくしたポロシャツが、よくドンキなどで売っているが、世界中のハイソな人が、ほとんどポロをやらないのにポロシャツを着ているということが、よくよく考えるとシュールである。あのロゴが近年どんどんデカくなっているのも気になる。
ポロの休憩時間に、観客みんなで、競技場のターフ(芝の禿げた部分)治すという伝統があるそうで、そのシーンが描かれていた。
本当の金持ちしか知らない伝統である。
世界は、ポロをやる人間とやらない人間に分かれている。
ポロか、ポロシャツか、である。
イチゴとシャンパン
最初の晩にエドワードはイチゴとシャンパンをルームサービスで頼むのである。曰く、シャンパンにはイチゴが合う。マリアージュするのである。
シャンパンで出来上がったヴィヴィアンが、バスルームのこもったので、不審に思ったエドワードが、中に入ると、鏡の前で、ヴィヴィアンが何かを隠す仕草をしたので、てっきりヤク中のフッカーじゃねえのか、と憤ったエドワードは、「コケインをやるならでてけっ!」と怒鳴る。
しかし、ヴィヴィアンは、イチゴの種が歯の間に挟まったので、バスルームで、デンタルフロスを使っていたのである。
ヴィヴィアンは、娼婦として、客に恋愛感情を抱かないため、客の唇にキスをしないというマイルールを課している(商売仲間のキットのアドバイスである)のであるが、イチゴの種が気になるというのは、全部見終わってみれば、もうその時点で、エドワードに恋してるんじゃないかと思った。
ちなみに、エドワードは、酒もタバコも薬物もやらないビジネスエリートである。
ネクタイのえくぼ
ヴィヴィアンが、エドワードのネクタイを結んでディンプル(えくぼ)を作ってやる。祖父のためにネクタイを結んであげていた、とのこと。
エドワードは、にんまり。
デンタルフロスやディンプルがヴィヴィアンの育ちの良さを暗示しているとかいう論評があった。ブルデューのディスタンクシオン みたいなものか。
体は売っても心は売らない
エドワードの事業は、M&Aした企業を、事業ごとに解体して、転売して、その差額で儲けを出すというスキームである。ヴィヴィアンはそれを聞いて、盗難車を解体してパーツを売るようなものね、と生活実感に照らして答える。1週間3000ドルで、身を売ったヴィヴィアンであるが、最終日に、エドワードから、愛人として囲われないかというオファーを受ける。
ブランドショップでの買い物、スイートルームでの生活、ドレスとジュエリーをまとっての豪華なレストランでの食事などなど、想像したこともない贅沢な生活を満喫して、到底元の街頭に立つ売春婦の生活に戻れないはずのヴィヴィアンであるが、所詮自分も解体して売られる企業と同じで、人間扱いされていないのではないかと疑いを抱く。
体を売っても心は売らないというポリシーで、エドワードの申し出を断るのである。
絶好の申し出を断ったヴィヴィアンに猛省を促されたのか、エドワードは、モースという老舗企業を、買収して解体するのをやめて、従業員ごと引き受け、事業継続する決断をする。
企業文化を破壊するようなM&Aのアコギなスキームから足を洗うのである。
はしご
ヴィヴィアンも娼婦から足を洗って、中退した高校に入り直して卒業する決心をする。
そんなヴィヴィアンが、アパートから引っ越ししようという矢先に、バラの花束を持ったエドワードが、リムジンで現れる。
ヴィヴィアンがオープニングで、家賃未納のため大家に会わないようにベランダのはしごから出かけた、そのはしごから、エドワードが、ヴィヴィアンの部屋のベランダに向かって、バラの花束を握って登ってくる。
バラの花束に「はしご」というのがまた、演劇的である。
シェイクスピアかよ。赤と黒かよ。
ホテルの支配人(ヘクター・エリゾンド)とエレベーターボーイ
碧眼の冷徹なホテルの支配人が、だんだんヴィヴィアンの肩を持つようになるというくだりが、効いていた。エレベーターボーイのニコラス・ケイジ似の俳優の鼻の下の伸びきった感じの演技も、プロット上のアクセントとして効いていた。
バーのピアノ
終始、リチャードギアがかっこよかった。明け方のホテルのバーで、掃除夫を前に、ピアノを弾いてストレスを紛らわすシーンがかっこよすぎである。上得意の特権である
私もいつの日か、明け方のホテルのバーで猫踏んじゃったを弾きながら、ピアノの上に寝そべったジュリアロバーツ似の(以下略)
挿入歌
80年代っぽい挿入歌が、懐かしかった。
冒頭使われていたこの曲聞くと、布袋寅泰のなんかの曲を思い出す。
今井美樹の口の大きさは、ジュリア・ロバーツとどっこいどっこい。
まとめ
現代の人権意識に照らすと、ポリコレ棒で殴られそうなダイバーシティへの配慮のない作品だと思った(白人富裕層映画)が、もう30年前の作品である。
リチャード・ギアが、東京の証券市場の動向を気にしているシーンがあり、もしかしたら、プリティー・ウーマンとは、経済成長して同伴してきた同盟国の戦後日本のことなのかと思わぬ節もないが、今リメイクしたら、東京市場は出てきそうもない。
失われた30年をしみじみ感じたのである。
しかし、30年前はそれなりに色々なものが健全だった。
(おわり)
お志有難うございます。