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マーク・トゥエイン『トム・ソーヤーの冒険』読書会 (2024.9.20)
2024.9.20に行ったマーク・トゥエイン『トム・ソーヤーの冒険』読書会のもようです。
私も書きました。
ザ・アメリカ文化のヒューマニズム
小学生の頃、世界名作劇場でアニメ版の『トム・ソーヤーの冒険』を見た記憶があり、インジャン・ジョーという殺人鬼をめぐるサスペンスのような内容がメインだったのはうっすら覚えていた。
今回初めて原作をしっかり読んでみると、児童文学にしては、大人の世界に対する皮肉が効きすぎていて、難しい内容だと思った。中高生が読んでも、面白いと言えるのかどうか、という難易度である。
南部が舞台ということで、ミッチェルの『風とともに去りぬ』や、フォークナーの諸作品を思い出しながら読んだ。
南北戦争後に書かれたにも関わらず、南北戦争以前の平和なミシシッピーへの郷愁があふれており、戦後に失われたもろもろの南部の文化に対するマーク・トゥエインの哀悼のような気分さえも伺える。
トムは、『風とともに去りぬ』のレット・バトラーのような大人になっただろうか? バトラーは、南北戦争に乗じて、冷静に南部の敗北を予想し、巨万の富を築いた。ベッキーの気の強さはスカーレット・オハラの勝気な性格に通じるものがあると思った。
船乗りごっこや、ロビンフッドごっこや海賊ごっこに没入するトムたちの描写を見て、自分の子供時代にもああいう遊びがあったことを思い出した。何かになりきって遊ぶ楽しさとはなんなのだろうと哲学的なことを考えた。
世間の仕組みを知らず、自分の能力の限界を知らない子供は、想像の上で何にでもなれる。子ども同士の遊びの中で、何かになりきって、みんなの前に現れることで、関係性の中での自分の役割というものを体に叩き込む。子供もみんなで楽しく遊ぶとなれば、何かになりきり、なりきっている友達に気を遣いながら、ともに遊びを楽しむという、結構繊細なことをやっている。友達とうまくやっていくという、人間関係の営みに対してトムがあらゆるシーンでとても鋭敏かつ繊細な直観を活かしていることに非常に関心した。
(引用はじめ)
ポリー伯母さん、メアリ、ハーパー一家が蘇った者たちに飛びついていき、キスの嵐を浴びせ、感謝の言葉を口々に迸らせた。その間ハックは、なんともバツが悪そうに、落ち着かな気に立ち、どうしたらいいか、彼を歓迎せぬかくも多くの目から逃れてどこに隠れたらいいのか分からずにいる様子だった。彼はためらい、こそこそ立ち去りかけたが、と、トムが彼を捕まえて言った。
「ポリー伯母さん、不公平だよ、ハックを見て喜んでいる人だっているはずだよ」 (P.204)
(引用おわり)
トムは子供の間では、いい奴だと思うし、読者はトムが好きになる。この好きになるという感覚は、子供の頃強く感じるもので、大人になれば、お互いの距離感は、こんな純粋ではなく、何かの打算が混じる。問題児ハックとは距離をおいて接するようになるだろう。だが、子供同士はそうではない。上記引用で気後れして立ち尽くししている孤独なハックを、トムがさり気なく気遣い、そして、みんなで賛美歌を歌うという展開が、ザ・アメリカ文化のヒューマニズムという感じだった
(おわり)
読書会の模様です。
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