テラさん問題 その2
前回の記事を書いてから、NHKで深夜一挙放送していた『まんが道 青春編』の残りを視聴した
後半のエピソードで、トキワ荘御用達のラーメン屋の店員であった鈴木保奈美が、給料が安く貯金もできないので、ホステスになったというエピソードが挿入されていた。
たまたま、夜の街で漫賀、才野と再会して、諭され、故郷に帰ることになった。連続テレビドラマにありがちなサブ・エピソードである。
鈴木保奈美は、今でいうモブキャラである。のちにトレンディドラマで大ブレイクを果たす鈴木保奈美が、かっぽう着姿で岡持ちする姿は、なんともいえないものがある。こっちのほうが、この人の本来の資質にあってんじゃないかと思った。
私は、鈴木保奈美の出世作『東京ラブストーリー』とか10分と見ていられない。昔からそうである。最近、夜中にBSフジで再放送していたので、少し見たが見ていられない。鈴木保奈美の芝居は、人形劇みたいである。なんで彼女があんなに人気があったのかわからない。キレイだとは思うが、表情が乏しい。芝居をするにあたってのバックボーンが、これほど何もない空虚な感じの人も珍しい。
というわけで、まくらはここでやめにして、その後、YouTubeで次の動画を見た。1981年ごろのテラさんが、NHK特集の取材に答えていた。
以下にテラさん出演部分のリンクを貼っておく。
テラさんのノックが見られる。軸がしっかりしたスイングである。体幹が強い。人間的にも軸がぶれない人だというのを強く感じる。あと、ドラマ版の河島英五と、やはり、かぶった。
「ウケるとか、売れるだけが漫画の基準ではない」
テラさんが動画の中で語っている。
テラさんが、少年漫画雑誌の変化に気づいたのは、週刊少年サンデーで『スポーツマン金太郎』を連載していた頃、1960年を境にしてである。
1960年に安保闘争があった。
そしてテラさんが筆を断ったのは1973年である。あさま山荘事件の翌年である。
また、1973年は、手塚治虫の設立したアニメーション専門プロダクション『虫プロ』が倒産した年でもある。
テラさんの心境の変化の背景には、日本の政治的背景があったような気がする。
テラさんは、学童社の『漫画少年』で野球漫画を執筆していた。
この学童社の『漫画少年』が、テラさん問題を核心であると私は考える。
『まんが道』のドラマ版でも描かれているが、『漫画少年』は手塚治虫がジャングル大帝を連載していた。(1950~1955)
『漫画少年』の学童社の編集長は、ドラマでは、北村総一朗が演じていた。
これは、wikiによれば『学童社「漫画少年」の初代編集長 加藤謙一と息子の加藤宏康編集長がモデル」だそうである。
学童社は1955年に倒産して、そのエピソードは、ドラマにも描かれていた。
北村総一朗が、原稿料の未払いを土下座して、漫賀と才野に謝罪するシーンがあったような気がするが、私は、一回見て、録画削除したので、だいたいそんな話だったと思う。
学童社の『漫画少年』は投稿欄が充実しており、手塚治虫が投稿作品の作品の講評をしていた。新人漫画家の登竜門であり、投稿したもの同士のネットワークが形成される同人誌的な働きもあった。
全国の漫画家志望の青少年は、この投稿欄で腕を磨き、のちに投稿欄を担当するテラさんは、この投稿欄からめぼしい候補者を、トキワ荘に誘ったそうである。
そもそもトキワ荘は、学童社の編集者が住んでいる新築アパートであり、手塚治虫が入居したのも、学童社の編集者(とは言っても、これは、学童社の創設者加藤謙一の息子たちなのだが)の勧めである。
テラさんも、手塚修の向かいの部屋に入居し、『漫画少年』の投稿欄の講評を手塚治虫から引き継ぐに当たって、トキワ荘を、『漫画少年』に集まる新人作家の梁山泊にしようと意図したものらしい。
以上は、ウィキペデアの『学童社』『漫画少年』『トキワ荘』『寺田ヒロオ』の項に詳しく書かれているが、真偽のほどはわからない。
『漫画少年』の創刊こことば以下である。
テラさんは、トキワ荘に次々と入居してくる漫画家らと『新漫画党』を結成して、親睦を深めていく。その活動は、ドラマ版『まんが道 青春編』にも詳しく描かれている。
元は、学童社の『漫画少年』投稿欄の全国の漫画家志望者たちを、リクルートして、原稿の穴埋めや、手塚先生のアシスタントなど、生活互助のシステムを備えながら、作家を育てていくという構想だった。
これは、テラさんの構想である
このテラさんの構想の歯車が、1955年の学童社の倒産とそれに伴う『漫画少年』の廃刊によって狂っていったのである。
(つづく)
お志有難うございます。