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テラさん問題 その1

NHKで、藤子A不二雄先生原作の『まんが道 青春編』が深夜一挙再放送されていたので録画して、第8話まで視聴した。

富山から上京した藤子A不二雄先生と藤子F不二雄先生が、手塚治虫の住んでいたトキワ荘の一室に引っ越して、漫画家としてデビューして、自分たちの実力を超えた連載数を抱えながら、成長していくという物語である。

このトキワ荘には、寺田ヒロオという先輩が漫画家がいた。

通称、テラさんである。

テラさんは、情に厚く面倒見のいい先輩である

富山から上京してばかり右も左も分からない世間知らずの藤子不二雄コンビを励ました。ときには厳しく叱咤しながらも、家賃や生活費などの金銭面では、最後の貸し手としてバックアップしてくれるという頼りになる存在であったそうだ。

NHKのドラマ版では河島英五がテラさん役でキャスティングされていて、これがなかなかのハマリ役であった。

河島英五の代表曲といえば『酒と泪と男と女』『時代おくれ』である。

テラさんは、野球が好きだったので、野球を通じて、健全に成長していく少年のストーリーを描きたかったそうである。

wikiによれば、そのようなウェルメイドで健全な少年野球漫画で、1950代後半から60年代前半まで、人気漫画家だったそうだ。

しかし、東京オリンピックが終わり、高度成長化の中で、初めて日本の経済成長率が停滞した1965年を境に、日本の世相は曲がり角を迎えた。

(1964年の経済成長率は11%、翌65年は5.8%に低下したのである。)

この頃から、日本の漫画界では、劇画ブームが起こり、手塚治虫が、劇画ブームに対して反発して、少年マガジンの連載を中断し、同じ連載を少年サンデーで再開するという『W3事件』というのがあったらしい。

この辺詳しく説明すると長くなる上、私もサブカル専門家じゃないので、いろんな文献に当たって正確を期すこともできないのだが、要するに、漫画雑誌が次々創刊され、市場が飽和した。

景気も一時、低迷していたので、エロ・グロ・ナンセンス的な劇画を粗製濫造して、売らんかな、で少年漫画雑誌に載せ始めたということだと思う。

話は変わるが、寺田といえば、寅彦である。

寺田寅彦は熊本五高の夏目漱石の教え子であり、漱石の『三四郎』の野々宮さんのモデルである。夏目漱石の高弟である。

最近私は、日経新聞のコラムで見つけたマーク・トゥエインの

『歴史は繰り返さないが、韻をよく踏む』

”History doesn’t repeat itself, but it rhymes.

という格言を思い出した。

夏目漱石=寺田寅彦の関係は、手塚治虫=寺田ヒロオと韻を踏んでいる。

手塚治虫は、少年時代の戦争体験から、漫画における表現の自由を、やはり軍国主義的抑圧への抵抗として考えていたように思う。

戦前に、内務省の検閲によって表現の自由が抑圧されるにつれて、庶民の間では、エロ・グロ・ナンセンスブームという形で、政治権力への抵抗が行われた。

エロ・グロ。ナンセンスというのは権力への抵抗というよりも、検閲の網の目をかいくぐりながら、販売数を確保するというチートである。私はそう思う。

何が言いたいかというと、劇画ブームもエロ・グロ・ナンセンスブームと同じであり、過激な暴力描写や性描写を少年漫画誌に掲載しながら、身振りだけの反体制の姿勢を保ちながらも、その隠された目的といえば、伸ばしすぎた部数を維持するために、過当競争を生き抜くための、出版社の売らんかなという苦肉の手段だったように思うのである。


手塚治虫は、『宇宙戦艦ヤマト』のヒットに軍国主義の再来を感じとり、ひそかに泣いていたという話がある。よって、寺田ヒロオが劇画作家を敵視し、劇画の不健全な表現内容を、批判したのは、戦後の漫画界のたどった戦前と同じ、屈折を見たからではないかと私は思う。

私も、永井豪の作品なんか読むと、ひっでえなと思う。

中学生の頃、たまたま読んだ本多勝一のルポタージュで知った『ススムちゃん大ショック』という漫画なんか、なんか、自分の倫理観が破壊されるような、トラウマになった。

しかし、今、永井豪の漫画を見ると、脳みそがやられているせいか、このくらいの表現はありふれているし、そのぐらい、自分の倫理もぶっ壊れているのかもしれない。

が、しかし、あんなものは青少年に読ませるものではないと思う。しかし、喜んで読んでいるやつを批判することもできない。それは、個人の自由だと思う。

漫画やアニメの表現の規制は、政治的に今もホットな話題だが、人間は刺激を求める動物だから、過激な表現になるにつれて、新たな刺激を求め、結局は、その刺激に慣れて、興味を失っていくのである。そうすれば、巡り巡って、売れなくなるし、業界も、縮小するのである。

現在の漫画業界自体が、もう風前の灯であるのを見ていれば自明である。

消費社会が行き過ぎると、売り上げ確保のために、出版社なんてなんでもやる。過剰な暴力描写や性描写は、作家主義からいえば、逃げなのである。しかし、背に腹は変えられない。

昨今、漫画を出すような出版社の作っている、排外主義本やネトウヨ本だって、本が売れないからやっているのである。でも、ああいう出版物は、自分たちの首を絞めているのである。

寺田ヒロオは、永井豪をとりわけ強く批判していたようだが、しかし大衆消費社会の過当競争という時代の趨勢は、テラさんを置き去りにしていったのである。

河島英五の『時代おくれ』は、消費社会の市場原理による過当競争の中で、自分の価値観を見失わないように生きる、不器用な男を「時代おくれ」として歌いあげている。

テラさんも「時代おくれ」であった。

彼は1973年に漫画の筆を断つのである。

とりあえずここで筆置き、後で推敲したい。

(つづく)








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信州読書会 宮澤
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