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岡本かの子『鯉魚』読書会(2023.4.7)

2023.4.7に行った岡本かの子『鯉魚』読書会のもようです。

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朗読しました。


青空文庫 岡本かの子『鯉魚』



「迷妄だだもれするテック界隈の無明」



 私はNHKBSの番組で法戦を見たことがある。

一つは福井県の曹洞宗永平寺で、雲水が首座(しゅそ 修行僧のリーダー)と法戦している映像である。

正直言って、形式的なものに見えた。つかみ掛からんばかりのラップのフリースタイルダンジョンを見たことがある人にとっては、物足りないのものであった。

もう一つは中国共産党が弾圧するチベット僧の法戦である

こちらは、中世の法戦かくや、と思われるほどの激しいものだった。大人数が、躍動しながら、禅問答を繰り広げていた。これはこれで、中国共産党との死にものぐるいの政治闘争へのトレーニングのように見えてしまった。

 

禅宗は不立文字である。言葉ではなく体験で悟らせる。拈華微笑(ねんげみしょう)という逸話がある。釈迦が華をひねったら、摩訶迦葉だけが、にっこりして、その意味を悟ったということだ。

 

(引用はじめ)

 

どの問いに対しても鯉魚鯉魚と答えていると、不思議にもその調法さから、いつの間にか鯉魚という万有の片割れにも天地の全理が籠っているのに気が付いて、脱然(だつぜん)、昭青年の答え振りは活きて来ました。

 

(引用おわり)

 

「鯉魚」と力強く唱えているうちに、宇宙の全ての理を悟ることなど、現代では望めないだろう。

現代よりも宗教が力を持っていた時代があった。医学や公衆衛生が未発達だったため人の生命はもっと儚かった。

応仁の乱のような戦があり、貧困があり、病があり、救いのない衆生は、宗教に救いを求めた。

短い人生を迷妄のうちに生きることことが、苦しみだったのだ。救いとは人生の意味を悟ることだ。

 

現代では、病や貧困の苦しみを宗教で癒そうという人は減っている。それは、仏教の衰退を見ればわかる。

悟ることもない。迷妄のまま生きながらえている。

悟りを導く、拈華微笑のやりとりもない。ぜんぶマニュアル化している。

少子高齢化が問題なのではなく、ただ物理的に長生きしていて悟ることのない迷妄が、世間の巷にあふれていることころが嘆かわしいのだ。その上、衆生は、その迷妄にも、もはや無自覚であるという無明の世界である。

 

科学技術が発達して、人間の精神が画一化たために、かえって精神が凡庸化した。何がライフハックだ。

 

施餓鬼の生飯を鯉魚に与えるというシンプルな勤行によって、師である三要は昭青年を大悟に導いた。

現代人は、いくらネットで情報を得ても、大悟することはない。テック系企業の経営者は故スティーブ・ジョブズをはじめとして禅に凝っているのだが、彼らが、作り出しているものは衆生の迷妄をふかめるアーキテクチャーでしかないというのが、実に理不尽である。

 

(おわり)

読書会のもようです。


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信州読書会 宮澤
お志有難うございます。