ユゴー『レ・ミゼラブル 第三部 マリユス』読書会 (2021.4.23)
2021.4.23に行ったユゴー『レ・ミゼラブル 第三部 マリユス』読書会 のもようです。
私も書きました。
革命とお笑いの国民青春文学
マリユスは、別居していた退役軍人の父親のことを理解するようになり、ボナパルティストになっていった。そして、パリに出てきて、学生と交友関係を持つに至って、共和主義者になっていく。ナポレオンの個人崇拝から、自由を理念とする共和主義へのマリユスの思想的変遷が、細かく語られていた。
それと同時に、マリユスは、コゼットに惹かれ、リュクサンブール公園をうろつき、ストーカーまがいのことをする。政治と恋愛が、一緒くたになって、疾風怒濤のように、マリユスの頭の中を駆け巡る。
これはちょうど私の二十歳前後の頃にもあったことで、白紙の脳みそのメモリーに、政治思想やら文学やら、恋愛感情やらが、雑多に投げ込まれて、自分でも振り返ると恥ずかしくなるくらい愚かな行動をするものだ。
青年の行動が200年前から変わっていなくて、そもそも青春というものが、フランス革命の後に生まれたのではないかという気さえした。ジャン=ジャック・ルソーは、一般意思とか社会契約とかいう概念を著作に表したが、やはり、彼が偉大なのは、青春というものを創造したことだ。
自分のいびつな青春遍歴をリアルに描いた『告白』や、恋愛メロドラマの濫觴となった『新エロイーズ』、そして作曲活動など、ルソーは青春時代の若者に必要なものを全部、実践して、それを作品にしている。
読書会を通じて、19世紀のフランスの青春文学ををいくつか読んだ。バルザックの『ゴリオ爺さん』、スタンダールの『赤と黒』『パルムの僧院』、コンスタンの『アドルフ』などなど。
それらのどの主人公も、情熱にかられて前後見境のない行動にうって出る。それに比べると、日本文学というのは、なんだか、あんまりパッとしない。夏目漱石も青春文学なのだが、どっちかというと、『坊ちゃん』『三四郎』は俳味が強くて、青春を一歩引いて滑稽に描いている。
『それから』は、一見すると悲劇だが、代助は、マリユスのように極貧生活から身を立てていくわけでもない。悲劇的に描かれてはいるが、冷静に読んでみると、どこか滑稽で、お笑いのようだ。
なんでなのかなあと思う。
最近小布施に行ったので、小布施に縁の深い江戸時代後期の俳人小林一茶の『おらが春』を読んだ。非常に面白かった。とりわけ、封建制の抑圧の中に生きる庶民の鬱屈が、全て俳諧にこめられている点だった。現代においてお笑いが、青春群像であるのと同じく、一茶の門人たちは、自分たちのお笑いセンスをかけて、青春している。
革命のない国の文芸というのは、やっぱり、お笑いしかないのかと思ってしまった。
(おわり)
読書会の模様です。