大衆の幼児語
オルテガの『大衆の反逆』を読んでいる。大衆批判の本である。
大衆批判というと、「てめえ、さしずめ、インテリだな!」という嫌味な本かと思いきや、読んでみれば、なるほど、と激しく太ももを叩くことしきりであった。
オルテガ曰く、現代人には、孤独や内面性がないというのである。
個人になるためには、自分の内部からいろいろなものを引き出してこなければならない。しかし、現代人は、そんなことしない。
てめえが、内部の中から引き出したものにしか品位は存在しないのだが、現代人は、すでにあるものを、さして批判もせずに、自分の思考に取り入れて、日々、選択や決断をしている。
古代ローマは、俗ラテン語の出現によって崩壊した。
俗ラテン語は、幼児語に似ているという。
現代人である大衆の言葉も、幼児語に似ている。
その幼児語は、「居酒屋をいやというほど廻ったために、垢じみて摩滅した古い銅貨」(岩波文庫版P.39)のようであるという。
手探りで進む哀れな言葉。
現代人は自分の苦悩を引き受けない。
自分の物語を持っていない。
なぜなら、自分の言葉を持っていないからだ。
思索の末に、鋭利に尖った言葉があれば、それは、決して、幼児語のように冗長で間延びしていないのである。
自分の言葉を持たないものは、他人の言葉の奴隷になる。
政治の言葉は、我を忘れさせ、人を狂乱に陥れるような、扇動に満ちている。
政治の言葉は、人間から、言葉を奪うのである。
私は「SDGs」という言葉が、気持ち悪くて、いやでいやで、仕方ない。
この言葉は、孤独や内面性を奪う政治の言葉であると思う。
「SDGs」のような社会正義の幼児語が、個人の思索を奪い取るなら、人間は社会正義の奴隷になるのである。
政治の契機が、人間の人間に対する人間の統制なら、まず個人の言葉は、邪魔である。
大衆扇動しかないような現代の政治は、個人の思索から生まれた尖った言葉を徹底的に排除して、みんなの政治用語を強制するものだ。
以上は、私がオルテガの本を読んで足したり引いたりした感想であるが、身につまされた。
(おわり)