島尾敏雄『出発は遂に訪れず』読書会 (2021.8.13)
2021.8.13に行った島尾敏雄『出発は遂に訪れず』読書会 のもようです。
私も書きました。
腕に抱いた日本刀と魚雷艇の信管
「戦争とは他の手段をもってする政治の継続である」とは『戦争論』で有名なクラウゼヴィッツの言葉だ。
(引用はじめ)
今度の戦争の責任は、士官がとらなければなりませんよ。下士官兵には責任はありません。士官とはそういうものです。今までそれだけの特権が士官には与えられてきたのですから。あなたはいくら期間が短く、また予備士官であっても、お気の毒ですが士官としての責任をとってもらわなければなりません。それにアメリカ側が必ずそれを要求してきます。(P.394)
(引用おわり)
米ソの冷戦は、すでに戦争中に激化していた。日本の戦争指導者たちの一部は責任を取らされたが、冷戦体制の中で、日本が自由主義陣営の反共防波堤としての役割を与えられたため、多くの士官クラスは、責任をうやむやにされて、戦後の日本社会に戻ってきたのである。
いわゆる『逆コース』である。
日本人の戦争責任も、上位概念の体系である国際政治の力学によって、解消されたのだ。
政治の継続とは、丁半博打が延々と続くような状態を指す。
勝負所で、大規模に戦争をやって、大勝ちしたり大負けしたりしているのだ。
日本国は身代かけた大勝負で大負けして、すってんてんになった。
それが昭和20年8月15日の無条件降伏である。
(引用はじめ)
負ケタ負ケタ負ケタと頭の中で出口が分からず狂いまわる考えと一緒に、おかしなことに、生き残った実感がその場所をかためはじめ、頬に笑いを押し出してよこした。 (P.377~378)
(引用おわり)
無条件降伏と知って、S中尉が笑いを堪えられなくなるのは、個人としての感情である。しかし、180名の部下のいる組織人の特攻隊長としては、笑ってはいられない。敗北の責任が、重くのしかかってくる。組織を統括するものが、組織の解体を喜ぶわけにはいかない。
戦争も政治の一部である。博徒にテラ銭の勘定はどだい無理である。
政治や経済は、戦争の上位概念の体系である。政治や経済音痴が、戦争を語るほど滑稽なことはない。
コロナ禍でオリンピックを開催したということは、コロナも、すでに政治や経済という上位概念の体系に呑み込まれている証拠だ。
目の前の現実のはるか上空で、政治は継続され、事態は風雲急を告げていると想像するべきだろう。
特攻精神を後生大事に抱え込んで、突撃態勢を維持しても、その時ハシゴは誰かに外されている。
組織の存亡を賭けた一発勝負で華々しく散りたいというのは、下劣なメロドラマだ。
それは単なる無責任体制の組織的隠蔽の正当化である。
最終部で、主人公が、信管を抜かずに寝たのは、一晩のみじめな自己正当化のためだ。
骨抜きにされた組織の規律を、一晩だけ、腕に抱いた日本刀と魚雷艇の信管で支えたのだ。
(おわり)
読書会の模様です。