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モリエール『人間ぎらい』読書会 (2021.7.30)
2021.7.30に行ったモリエール『人間ぎらい』読書会のもようです。
私も書きました。
樽の中まで45分
『人間ぎらい』を再読して、落語の『三枚起請』を思い出してしまった。
遊女が、何人もの客と起請文(結婚の約束)を交わして騙すという落語である。
しかし、モリエールの喜劇が、落語と違うのは、アルセストに個性=主体性があることだ。
(引用はじめ)
アルセスト 心の中では、あなたのなさったことを何によらず大目に見ることができるでしょう。人間が弱ければこその振る舞いだ、現代の悪癖があなたの若いところにつけ込んだうえのことだと、見すごす気にもなるでしょう。しかしそれも、一切の人間から離れようとしている僕の計画に同意してくださらなければだめです。これから行って住もうと思っている人里はなれたところへ僕といっしょに行く決心をしてくださらなければだめです。(略)
セリメーヌ でもまだ年寄りでもないのに、世捨人になるのでしょうか。あなたのおっしゃるその人里はなれたところへ埋まりにゆくのでしょうか。
アルセスト 僕と同じ真剣な心になって下さるんだったら、世間はどうでもかまわないじゃありませんか。するとあなたは、僕と同じ心にはなってくださならいんですね。
セリメーヌ 二十歳そこらの者には、恐ろしくてなりませんわ。そんなところ。 偉くも強くもない女ですもの、そんな決心つきそうにもありませんわ。
(第五幕 第四場 P.149~150)
(引用おわり)
落語の登場人物は、世間に埋没している。世間体、義理、心にもないお世辞、人間を手段としてみる計算高さ、欺瞞に満ちた人間関係などに雁字搦めの落語の世界の住人たちは、アルセストのような潔癖でもって、世間を徹底的に批判することはない。なぜなら、落語の住人には、個性=主体性がないからだ。
アルセストほど、主体性を重んずる人は、できることなら出家すべきである。
あるいはディオゲネスのように、樽の中で暮らすべきだ。
しかし、彼は、セリメーヌに恋することで、世間に未練を感じて、苦しんでいる。
でもって、彼女と人里はなれたところで人生をやり直すことを強いるのである。
しかし、魚に水が必要であるように、女性には人間関係が必要である。セリメーヌは欺瞞によって彼女自身なのである。偉くも強くもなくて、決心がつきかねるから、彼女は、世間になんの疑問もなく存在できるのだ。三枚起請の花魁、喜瀬川と同じである。セリメーヌの人格的弱さを、アルセストが批判したって、彼女は、変わりようがない。
アルセストは、セリメーヌに主体性を持つように強いている。彼と駆け落ちすれば、現代の悪癖から手を切って、セリメーヌの個性を実現できると思っているのだ。
でも、そんなこと本気でしたら彼女は、精神的に参ってしまうだろう。
人里をはなれても、それは単なる逃避である。主体性は世間の中でしか発揮されない。世間と没交渉の主体性というのは、主体性でもなんでもない。世間が、沼地だからこそ、そこで足掻くための主体性が逆に際立つのだ。
世間にいながら樽の中に住むのは、一つの主体性のあり方である。
人里はなれて、世間ともはなれれば、生きながらに自分の主体性を殺すことになる。
アルセストは、夏目漱石の坊ちゃんに似ていないこともないが、坊ちゃんが赤シャツを殴って教師を辞めたような単純な勧善懲悪ではすまない主体性を彼は持っている。
アルセストはセリメーヌを隠遁生活に誘うのだが、それはもっともっと世間の地獄で苦しむためだ。
苦しみの中でしか主体性が表れてこないという矛盾が、人を狂気の淵まで誘う。
ドストエフスキーの登場人物、例えばラスコーリニコフだったら、その苦悩の果てに信仰の形式を得るだろう。
フランス貴族の社交生活は、欺瞞を欺瞞のまま形式化して、アルセストの苦悩を笑い飛ばすほど、スレている。
アルセストは、自分で自分を突き放すわけではない。
その境地=樽の中まであと一歩である。
その一歩が、彼には遠い。
(おわり)
読書会の模様です。
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