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太宰治『善蔵を思う』読書会 (2022.11.18)
2022.11.18に行った太宰治『善蔵を思う』読書会のもようです。
吉本隆明が『善蔵を思う』について語った講演の文字起こしです。
私も書きました。
瞑目などとは無縁の自意識の地獄を思う
太宰には、この作品に登場する甲野嘉一のモデルである今官一と共に、葛西善蔵の文学碑を建立する計画があったそうだ。葛西善蔵は、郷土津軽の先輩作家で、太宰のような荒れ果てた文学生活の果て、人間関係を破綻させながら、早逝した
本作は、葛西善蔵とどういう関係があるのか? これは、ほとんどアレゴリーというかメトミニーの境地である。アレゴリーは、イソップ童話のように、動物を登場させた抽象的表現をもって人間の世界を鋭く風刺する技法である。メトニミーは、言い換えによって、ある事柄を指し示す技法である。(例えば、政治の世界を「永田町」という国会のある地名によって表現するなど)
咲くか咲かぬかわからぬバラを押し売りに来た卑しい感じのする農婦というのは、葛西善蔵の私小説と葛西善蔵自身のメトニミーであるかもしれない。私も、今回、読書会にあたって葛西善蔵の『蠢く者』や『死児を産む』を読んでみた。
太宰もクズだが、葛西もやばい男である。上記二作の内容は、こんな風である。葛西善蔵は、郷里に津軽に妻と子供を残し、鎌倉の建長寺の庫裏で執筆活動をして暮らしていた。食事を世話する茶店の娘と関係ができて、彼女へのDVが日常茶飯事であった。不倫の末に、妊娠させてしまうが、彼女は流産する。こんな無茶苦茶で不如意な生活をそのまま活写してまで、文学的人生を正当化するその彼の作品は、実に哀れである。
葛西善蔵の作品こそが、押し売りされたバラのようなもので、咲くのか咲かぬのかわからぬ代物である。彼の作品は、窮乏の中で、人生の心理に迫ったといえば聞こえがいいが、単なる独善的な文学ワナビーの感情排泄だと疑えだせば、とんでもないものだ。
押し売りされたバラに怒りつつも、新聞社主催の津軽芸術懇親会に出席して、酒を煽って、日頃拗らせている感情的なストレスをわめき立てて、場をぶち壊しにするというというのは、不遇のまま死んだ葛西善蔵の鬱屈を代弁しているようである。その行動が、己の文学の自己正当化にまで及んでいる点で、実に醜悪であり、バラの押し売りと変わらないメンタリティーの発露である。
しかしこうした重層的な感情のあやが、葛西善蔵へのオマージュであり、リスペクトなのである。
日本の私小説(わたくししょうせつ)というのは、世間への爪痕であると私は思う。
キルケゴールの『死に至る病』でいえば、絶望して自分自身であろうとする『強度の絶望』である。
世界の書き損じとしての自己とは、咲くか咲かぬかわからぬ、押し売りされたバラである。
葛西善蔵を追悼しながら、路傍にのたれ死ぬような芸術的魂が、いつか花咲くようにと、太宰はこの作品で、センチメンタルなウソをひねくり出すのであるが、この目を潤ませながらの精一杯のウソを、太宰は、葛西善蔵をダシにして弁護したかったのである。
ここまでやらなきゃいけないのか、というのが読んだ感想であり、瞑目などとは無縁の自意識の地獄に臨んだ気がした。
(おわり)
読書会のもようです。
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