日本語詩 ブルーズ・ジャズ歌集 ①
1967年から1968年にかけての時期と推計できる或る日、自身制作の訳詞で浅川マキは奇妙な果実を歌ったと云う伝説がある(寺本幸司の2020年2月5日 インタビュ内発言)。言及内の横浜のバーでの演奏が浅川の仕事中なのか、プライベトなのか判らない。これが後の日本語詩制作の原形と見るべきか、音源はない。浅川のディスコグラフィに実際に日本語詩が出現するのは約4年後の朝日のあたる家/ジン ハウス ブルースが最初で、1971年9月5日発売のLP第2音盤 浅川マキ2(LP第1音盤の雪が降るも日本語詩のクレジットだが、やや無理がある)。記録上は朝日の当たる家が1971年6月15日、花園神社での演奏。
日本語でイメージするフォークソングというよりは 米国の伝承民俗歌謡が本源の朝日のあたる家が最初の日本語詩、半年後に改題して朝日樓(朝日のあたる家)に。これが、浅川が制作した日本語詩の第一作(LP第2音盤とLP第3音盤に収録)。LP第2音盤(浅川マキ2、1971年)にはブルーズを基にする日本語詩の第一作も(ジン ハウス ブルース)。続くLP第3音盤(浅川マキ ライブ、1972年)ではロッド ステュワト歌唱曲の日本語詩制作に取り掛かった(オールド レインコートとガソリン アレイ)。米国の伝承民俗歌謡(フォークソング)、ブルーズ、英国ロックと続いた日本語詩の制作はブルーズ・ジャズのスタンダードを基にした日本語詩の制作(1972〜1973年)で一挙に深化する。
音源ならLP第2音盤(浅川マキ2、1971年9月)、LP第4音盤(ブルー スピリット ブルース、1972年12月)、LP第5音盤(裏窓、1973年11月)、LP第7音盤(灯ともし頃、1976年3月)、LP第12音盤(マイ マン、1982年2月)。
英語原曲の大凡の発生順なら、次の10曲。①マイ マン(LP第12音盤)、②トラブル イン マインド(LP第5音盤)、③ロンサム ロード(LP第5音盤)、④セント ジェームス病院(LP第5音盤)、⑤ジン ハウス ブルース(LP第2音盤)、⑥ブルー スピリット ブルース(LP第4音盤)、⑦ハスリン ダン(LP第4音盤)、⑧難破ブルース(LP第5音盤)、⑨あの男が死んだら(LP第5音盤)、⑩センチメンタル ジャーニー(LP第7音盤)。
1916 / 1921 (1948) マイ マン
ビリ ホリデイ歌唱版が浅川 日本語詩の原曲の筈(1948年録音、1949年発売)。この歌の音楽自体はフランス語レヴュ(軽音楽劇)の上演前に出来ていた事になっている(1916年、モリス イヴァン作曲)。英語歌詞はレヴュの英語版 上演に合わせ完成(1921年、台本作家 チャニング ポロク作詞)。
原詞は(不等行の)各連4行で5連、その後に7行の1連、4行の1連、2行の1連。最終連以外は各連で自由な脚韻を多様し、レヴュの雰囲気が濃厚。発生起源のドラマトゥルギーを伝える。音楽はAAAAABAA'。
浅川の日本語詩は意味の流れが原詞にかなり忠実。もとより軽音楽劇の挿入歌なので、オペラで云えばレチタチーボで5連まで一気に物語る。ここを日本語詩では内容の順番を整理した上で1連を1行に割り当て5行で1連に整形(最後の1行前で改行。この1行は原詞の第4連、物語を語りだすレチタチーボの部分で最も重要な所。女が居る)。
語り出しが終わった所で音楽は暗から明に一転、日本語詩は後半、2行の連、3行の連に続く。日本語詩で後半最初 2行の連は原詞の第6連(7行)。続く日本語詩3行の連は英語原詞の第5連と第7連と第8連を圧縮した結論。日本語詩はA(5行、表面上 第5行目を行替え)、B(2行)、C(3行)に整理し、最後にCを繰り返して全曲を終了する。
一見取り留めなく続く英語原詞を内容から日本語詩の造りに整理した上で音楽の展開に基づいて全曲の流れを新たに分節化、単なる音楽劇挿入歌にとどまらない 構造の分かり易さを生み出した。日本語詩の初出はLP第12音盤(マイ マン 1982年2月発売)A面1曲目。
1924 (1926) トラブル イン マインド
女性歌手がピアノだけまたは小規模アンサンブルの伴奏で歌う演奏様式のブルーズ曲をヴォドヴィル ブルーズと云う(古典的な女性ブルーズ様式とも)。(カントリー ブルーズ等の)伝統的民俗ブルーズと(レヴュやヴォドヴィルなどの)都市型劇音楽を融合して生まれ、1920年代から1930年代半ばに掛けて一般的だったブルーズの初期スタイル。トラブル イン マインドの最初の録音はこのスタイルでの演奏(1924年5月、歌手 テルマ ラ ヴィツォ/リチャドMジョンズ ピアノ伴奏)。1926年の新録音で初期ブルーズのスタンダード ナンバーになった(歌手 バサ チピ ヒル/伴奏 リチャドMジョンズ・ルイ アムストロング)。因みに、ヴォドヴィル ブルーズ歌手のラ ヴィツォはシカゴ バラマウント レーベルで4曲録音を残している。
録音時の(作詞・作曲)クレジットはリチャドMジョンズになっているが、実は1800年代のスピリテュアル(黒人霊歌)に起源を有つ伝承民俗歌で、1924年の録音時には既に口承成立していた。曲は8小節構成のブルーズ。ト長調四分の四拍子の緩やかなテンポで8小節設定の和音構成を進行する。
英語原詞(1924年録音版)は押韻のない口語、各連3行で6連。浅川の日本語詩も様式を合わせ、各連3行で6連。記述内容は原詞に忠実(細かな違いは第2連に黒猫が出てこない所と第6連の汽車は2時19分に通過予定な所くらいか。これは仕方ない)。日本語詩はとくに第4連が秀逸。この連は英語原詞でも曲全体の意味を支える重要な部分。浅川のツボの押さえ方は半端なく正確。(音楽は1926年録音版)
やがてはお日様が
わたしの家の裏木戸の辺りにも
さし込むと想うけれど
日本語詩の初出はLP第5音盤(裏窓 1973年11月)B面2曲目。
(1865) 1927 ロンサム ロード
起源はスピリテュアル(黒人霊歌)で1865年発行の楽譜集に収録。(伝承歌謡なので固定のタイトルはないため)曲名はインキピトで(歌い出しをとって)ルック ダウン ザット ロンサム ロード、または短くロンサム ロード、更にロンサム ロード ブルーズなど。
このスピリテュアルを基にジン オスティンが歌詞を追加・整形、ナサニエル シルクレトが音楽を黒人民俗歌謡(ブルーズ)の様式に編曲したのが、ザ ロンサム ロード。1927年9月16日に(器械式)録音で音盤を制作、演奏はオスティン歌唱、シルクレト指揮ヴィクタ管弦楽団の伴奏(シルクレトはクラシックの才能があったためか、効果音が多い)。
以降、二百種類を超えるロンサム ロードの録音がある。おもな録音はフランク シナトラ、ルイ アムストロング、シスター ロゼッタ サープ、ボズウェル シスターズ(1934年4月27日録音)、ビング クロスビ(1938年12月12日録音)など。
英語原詞は典型的なブルーズの構造(AABA)に合わせ、各連4行で2連、2連目を繰り返す。日本語詩は記述内容を正確に保持しながら、各連4行で2連(見掛け上は各連8行で2連)、この2連を節として2節の構成(=フルコーラスで2番まで歌詞がある)。4行足した分、冗長性が拡大するのだが、これが逆に人生の果てし無さを伝える感覚効果になっている。
浅川は最後の2行から全16行を組み立てたのじゃないか。永劫に続くかと思われる夜の独行の後に曙光が訪れ(英語原詞では熾天使ガブリエルが)神様が(マンハッタンの)摩天楼の上で角笛を吹くのを地上から仰ぎ見る、このイメージに至るまでの長い長いロンサム ロード。浅川の詩には奇跡の希望がある。希望などは ひと文字も書いていないが。
そのまま あなたが旅立つなら
見てごらんよ ビルの上
神様がつの笛吹く こんな夜明けには
コーダでは原光が煌いた。こんな神々しいトランペットは それまで聴いた事がなかった。日本語詩の初出はLP第5音盤(裏窓、1973年11月発売)A面5曲目(最終曲)。
関連資料
1925 / 1927 (1928) セント ジェームズ病院
詞曲の起源は1700年代 アイルランドに発するブロドサイド バラッド(譚詩曲)、また、1800年代のカウボイ歌謡まで遡る(放蕩者の不運 The Unfortunate Rake /ラレド通り Streets of Laredo 別名 カウボイの死 The Dying Cowboy)。これら起源が絡まり合って、いずれ1900年以前までに様々な口承民俗歌謡が米国に成立した。曲名は博打打ちのブルーズ((Those) Gambler's Blues)、聖ジェイムズ医院(St. James Infirmary (Blues))。歌詞は二十種以上が伝わり、専門研究者は大凡2系統に分類している。
これら民俗伝承の出版・録音が1920年代に始まった。博打打ちのブルーズは1925年に楽譜が出版、1927年に音盤が発売(フェス ウィリアムズとロイヤル フラッシュ管弦楽団)。また、聖ジェイムズ医院は1929年に楽譜が出版、1928年に音盤が発売(ルイ アムストロングとサヴォイ ボルルーム ファイヴ)。
とくにアムストロング演奏版は広範な普及の起点になり、1930年までの数年間に200種類の音盤が録音・発売され、ブルーズ/ジャズのスタンダードになった(1928年12月12日、イリノイ州シカゴで録音、1929年に音盤発売)。因みにアムストロング演奏版のクレジット(作詞・作曲)は最初はドン レドマン(ミュジシャン)、再発売等でジョー プリムロズ(音楽出版者アヴィング マイルズの筆名)。いずれも便宜上の記録で、民俗伝承音楽の編集・編曲者以上の意味はない。
もともと民俗伝承の事、異稿は多いが基本、音楽は短調四分の四拍子の8小節構成で、ブルーズを冠する異稿が多い中、12小節構成の典型的なブルーズとは異なる。また、三拍子系で演奏する伝承もある。起源がバラッド(譚詩曲=物語)のため、伝承歌詞も長短含め異稿が多いが、アムストロング演奏版はサンドバグ分類のAタイプ、行数が少ない方の伝承歌詞で歌っている。
アムストロング演奏版の英語原詞は各連4行で3連。口語だが、定型ではない、一部 自由な脚韻を踏んでいる。浅川の日本語詩はブルーズの句割りに合わせて各連2行で9連。バラッドの様式に合わせ冒頭の内容の3連を再帰して全曲を終了する。日本語詩の初出はLP第5音盤(裏窓 1973年11月)A面4曲目。
(1925) 1928 ジン ハウス ブルース(ミー アンド マイ ジン)
ニナ シモヌ歌唱版の音源 ジン ハウス ブルーズ(1961年録音)が日本語詩の英語原曲に限りなく近い、タイトルも同じだし。しかし、浅川歌唱版もシモヌ歌唱版も、実はジン ハウス ブルーズではない、詞曲ともに。浅川が日本語詩 ジン ハウス ブルースの英語原曲とした、シモヌ歌唱のジン ハウス ブルーズは制作当時の曲名をミー アンド マイ ジンといった。
ミー アンド マイ ジンはハリ バークの筆名でJCジョンスンが作詞・作曲、1928年8月25日にベッシ スミスとポータ グレンジャ・ジョー ウィリアムズ(ピアノ/トロンボン)の演奏で録音した。これが何時の頃からか、ジン ハウス ブルーズと曲名と(作詞・作曲)クレジットを間違われるようになった。つまり、シモヌはミー アンド マイ ジンの歌詞を同曲のメロディで歌っている。曲名はジン ハウス ブルースで、ヘンリ トロイ作詞、フレッチャ ヘンダスン作曲のクレジットで。1960年頃には既にこの習慣だった。
因みに、ジン ハウス ブルースがタイトルの本来の曲は1925年にヘンリ トロイ作詞、フレッチャ ヘンダスン作曲で制作、1926年3月18日にベッシ スミスとFヘンダスン・バスタ ベリ(ピアノ/クラリネット)の演奏で最初の音盤を録音した。
浅川制作の日本語詩 ジン ハウス ブルースの英語原曲(ミー アンド マイ ジン)の原詞は各連3行で5連。ブルーズの様式通り、各連とも第1行目と第2行目は同一。日本語詩も原詞に合わせて各連3行で5連だが、第1行を第2行として繰り返すことはなく、代わりに第1連、第3連、第5連の各3行目を同一行に、同じく第2連と第4連の各3行目を同一行にしてイメージの呼応・循環を構築している。これって建築幾何学に近いセンスだ。
最後に、コーダとして新しい行を追加、更に第1連の3行目を再帰して全曲を纏めている。(コーダの追加歌詞は内容が本来のジン ハウス ブルーズ、ヘンリ トロイの歌詞の最終連に似ている。浅川は両曲の取り違えに気づいていたようだ)
ジン ハウス ブルースが あたしに とりついたのよ
日本語詩としては最初期に近いLP第2音盤(浅川マキ2、1971年9月発売)のA面3曲目が初出。(1974年12月発売のLP第6音盤に新録音で再録)
関連資料
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