日本語詩 ヒューズ詩華集

♪ そうだ ねぇ ダーリン
  気付くべきだったよ
  もっと早く おいらは そのことに
これって浅川マキの日本語詩の事だった。ジン ハウス ブルースは別にしても、朝日のあたる家、朝日樓、オールド レインコート、ガソリン アレイ、それはスポットライトではない、セント ジェームス病院、ロンサム ロード、日本語詩の各シリーズの走りや本筋は大凡、ライヴ音源だった。
 新しい試みの成否や可能性や何らかを浅川はライヴ収録で確認していた気配がある。同い年の岡本おさみもハイライトで同じ様な事をした(音源は1971年の東横劇場)。プロトタイプをきちんと制作する世代だったのかもしれない。ぶっつけ本番はあったとしても形ばかりで、行きあたりばったりは皆無。で、ラングストン ヒューズの日本語詩も1974年12月発売のライヴ音盤から始まる。

日本語詩の各シリーズ

 LP第06音盤(浅川マキ6、1974年12月発売)、LP第07音盤(灯ともし頃、1976年3月発売)、LP第08音盤(流れを渡る、1977年3月発売)、浅川は1974年から1977年にかけての2年余りの間に、Lヒューズ 日本語詩の音楽作品化に取り組むと同時に、1971年、LP第02音盤(浅川マキ2、1971年9月発売)から始めた日本語詩 各シリーズの制作をそれぞれ完了する。
 LP第03音盤(浅川マキ ライブ、1972年3月発売)で着手したロッド ステュワト歌唱曲集はLP第07音盤で2曲追加、LP第08音盤(流れを渡る、1977年3月発売)のイフ アイム オン ザ レイト サイドで、ステュワト ソロ第1期 英国時代の5曲を日本語詩のシリーズに纏めた(丸4年掛かった)。
 LP第04音盤(ブルー スピリット ブルース、1972年12月発売)から本格着手したブルーズ・ジャズ歌曲集は次のLP第05音盤で(LP第02音盤のジン ハウス ブルースを含めた)主要部8曲、これにLP第07音盤(灯ともし頃、1976年3月発売)のセンチメンタル ジャーニーを加え、1920年代から1940年代半ばに至る時代の米国ブルーズ・ジャズ9曲を日本語詩のシリーズに纏めた(LP第02音盤からなら4年半掛かった)。
 そして、斉藤忠利の翻訳を日本語詩とするLヒューズ詩華集は浅川のLP第06音盤(浅川マキ6、1974年12月発売)で山下洋輔が3曲、LP第08音盤(流れを渡る、1977年3月発売)で浅川が2曲を音楽化し、Lヒューズの詩の世界を5曲からなる日本語詩のシリーズとして纏める事になる(2年半近く掛かる)。

ラングストン ヒューズ詩華集

 1800年代半ばの南北戦争から半世紀後の米国では1900年代の初頭、南部から北部大都市圏へアフリカ系米国人の大移動が始まった。ほぼ1世代を掛けて地域人口の大幅な変動が落ち着く1920年前後には米国ニューヨーク市マンハッタン北部のハーレム地区はアフリカ系米国人が集中的に定住する街に変貌、アフリカ系米国人発の独自の新文化が生まれ、ハーレム ルネサンスとして時代を画した(1918年から1930年代半ばまで)。Lヒューズは文学、とくに詩の分野でハーレム ルネサンスを代表すると共に、米国文学の新しい流れを伐り開いた。
 戦前の来日(1933年)前後に起点をもつLヒューズとその作品の紹介は戦後、1950年代後半から本格化し1960年代に加速、日本の戦後詩、文学に新しい方向性を示唆した。米国文学研究者の斉藤忠利は早くからLヒューズ作品の翻訳を手掛けた。LP第3音盤(1972年3月発売)辺りから独自の制作方式(作品の基本設計を作詩・日本語詩・作曲として自身で制作)に転換、以降の浅川は英語原曲の歌詞は日本語詩として制作してきたが、Lヒューズの詩作品に限っては斉藤の翻訳を日本語詩とした。

 日本語詩 ラングストン ヒューズ詩華集 5曲の出典は次の詳細。
 LP第06音盤(浅川マキ6、1974年12月発売)のうち2曲が翻訳詩集 ニグロと河(1958年初版、国文社/ピポー叢書44)に収録の2篇。この翻訳詩集は1926年刊行の詩集 The Weary Blues(物憂いブルーズ)の全訳で、LP第06音盤A面2曲目が港町(Port Town)、同じく音盤A面4曲目がキャバレー(Cabaret)。LP第06音盤のうち残り1曲の日本語詩が翻訳詩集 黒人街のシェイクスピア(1962年)に収録の1篇。この翻訳詩集は1942年刊行の詩集 Shakespeare in Harlem(ハーレムのシェークスピア)の全訳で、LP第06音盤B面1曲目は詩集収録の あんな女は はじめてのブルース(Only Woman Blues)。 LP第06音盤に収録3曲の音楽は山下洋輔が作曲。
 Lヒューズ 日本語詩の残り2曲はLP第08音盤( 流れを渡る、1977年3月発売)に収録。日本語詩はいずれも翻訳詩集 黒人街のシェイクスピア(1962年初版、国文社/ピポー叢書68)に収録の2篇。LP第08音盤A面4曲目が流れを渡る(Crossing)。同じくB面4曲目が罪人小唄(Ballad of the Sinner)。LP第08音盤に収録2曲の音楽は浅川が作曲した。

ブルーズ詩、ジャズ詩

 日本語詩の源泉となった詩集のうち、Lヒューズの第1詩集 物憂いブルーズ(翻訳名はニグロと河)は1926年刊、ハーレム ルネサンスの最盛期の作品。これに対し、ハーレムのシェークスピア(翻訳名は黒人街のシェイクスピア)は1942年刊、この間には十数年の隔世があり、世界恐慌(1929年)を境にハーレム ルネサンスの退潮があった。
 1974年9月19日のライヴ収録を日程に制作が進行したと思われるLP第06音盤、Lヒューズ 詩作品のタイトルをそのまま冠したLP第08音盤、斉藤忠利の翻訳が日本語詩になる経緯を推測してみる。1958年に翻訳詩集 ニグロと河、1962年に翻訳詩集 黒人街のシェイクスピアが出版(ニグロと河は1964年、黒人街のシェイクスピアは1968年に それぞれ再版)。浅川が歌手活動を始めるのは1965年前後と推定(1967年にEP第00音盤で浅川マキはレコードデビュー)。浅川はスピリテュアル、ブルーズ、ジャズ等を初期レパートリーとしていた。
 浅川が実質デビューするのは1968年12月の蠍座公演。LP第01音盤の内容からみて1960年代末の浅川は寺山修司プロデュースの時代(LP第01音盤まで)。寺山は何よりも劇作家だったから時代の言葉に敏感だった。1945年の敗戦から解禁になったマルクス主義は1950年代の主流になり、1960年代からは戦前に開花した米国の文化が浸透し始める。日本語の在り方が激動する時代だった。ブルーズ詩、ジャズ詩を具現するLヒューズの詩作品を受容する背景が そこにある。1960年代の末期、浅川はブルーズ詩、ジャズ詩に時代の言語を体感したかもしれない(或いは寺山よりも更に深く)。

1974 神田共立講堂?

 1974年9月19日に東京・神田共立講堂で開催のライヴを収録した筈のLP第06音盤(浅川マキ6)明らかにライヴ音源なのだが、経緯に不明な点がある。(以下はLP第06音盤についてのウィキペディア項目の要約)
 1973年11月に日本語詩 ブルーズ・ジャズ歌集の主要部後半 LP第05音盤(裏窓)を発売して間もなく(1か月後)、1974年初頭、当時のレコード会社はチラシで半年後の1974年6月に新アルバムの発売予定を広報した。しかし、予告の6月に発売は無く、前音盤から約1年後に緊急発売の告知と共に1974年12月に発売したのがLP第06音盤(浅川マキ6)だった。
 しかも、音源は明らかにライヴ収録なのにオリジナルのLP第06音盤にはライヴ録音の記載も収録データ(日時・会場)の明記もない。1974年9月19日、東京・神田共立講堂は山下洋輔のオフィシャルページ、浅川自身のオフィシャルページの掲載内容(企業が変わった関係か浅川自身の現在のサイトには記述がない)。また、LP第06音盤から約3年後に発売のLP第09音盤(浅川マキ・ライブ・夜、1978年2月発売)の関連資料(同盤インナー)にある浅川自身の記述「完全なライヴレコードは七年ぶり✣」からLP第06音盤の音源について疑問符が残る。(神田共立講堂のライヴはラジオ放送も。LP第06音盤に収録がなかった奇妙な果実、レフト アローンの2曲も電波に乗った)
✣ LP第03音盤(浅川マキ ライブ)は1971年12月の紀伊國屋ホール、LP第09音盤(浅川マキ ライブ 夜)は1977年11月の京大西部講堂で、この間6年間ライヴ音盤の制作は無い。

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