日本語詩 ブルーズ・ジャズ歌集 ②
ベシ スミスはコロンビア リコーズでSP音盤約180曲分の音源を録音(約20曲分の原盤が所在不明)、1923年2月16日から1931年6月11日までの3037日(8年3か月26日)で180曲、月間平均1.8曲を制作、録音した事になる。Bスミスが28歳から37歳に掛けての偉業なのだが、35歳の1929年頃を境にブルーズそのものの人気が傾き始めた。コロンビアの録音も最後の2年(1930〜1931年)は年間6曲に減少し、1931年で契約解除になる。
ブルーズの人気が傾いたというより1929年は10月24日が木曜日、ブラック サズデイだった。世界経済を大恐慌に陥れる契機になったウォール街の株価大暴落はブルー スピリット ブルーズを録音してから僅か2週間後、株価の暴落は経済・産業の核心を揺るがした。以降は1930年暮れからヨーロッパに金融危機が拡大、米国は1931年にフーヴァーモラトリアムを施行し、9月に305行、10月に522行の銀行が閉鎖した。1932年後半から1933年春にかけてが恐慌の底辺で、1200万人が失業、失業率は25%に達し、銀行閉鎖は1万行に及び、1933年2月には全銀行が業務を停止した。この数年間でレコード会社は大方、死に絶える事になる。
Bスミスのコロンビア録音の後期から末期(1929〜1931年)は大恐慌が始まり、世界中に大混乱が拡大していく時期に重なる。浅川マキが日本語詩の原曲に選んだのは、この時期の3曲。
1929 ブルー スピリット ブルース
ブラック サーズデイから僅か2週間前の1929年10月11日の録音。ジェイムス プライス ジョンスンのピアノ伴奏で、Bスミスが歌唱。作曲はスペンサ ウィリアムズ(作詞はBスミスだろうか)。英語原詞はブルーズの様式で、各連3行で7連。各連とも1行目と2行目は同じ。連毎に脚韻を踏んでいる。
日本語詩は英語原詞に忠実な内容だが、全体を8連に整理し直している。前半最初の第1連と後半最初の第5連は同じ詩行で揃え、間奏を挟んで4連ずつの安定した形式に整えた。日本語詩の初出はLP第4音盤(ブルー スピリット ブルース)のA面1曲目。
1930 ハスリン ダン
Bスミスは1930年に3回の録音で6曲を制作した(3月27日、6月9日、7月22日)。ハスリン ダンは1930年7月22日の録音。エド アレン(コルネット)とスティヴ スティヴンス(ピアノ)の伴奏でBスミスが歌唱。
英語原曲はJCジョンスンがジャク/ジェイムズ クロフォドの筆名で作曲、Bスミスが作詞した。英語原詞はブルーズの様式で、各連3行で7連、最終行は全連で同じ。
日本語詩は内容・形式とも原詞に忠実。日本語詩の初出はLP第4音盤(ブルー スピリット ブルース)のB面1曲目。
1931 難破ブルース
Bスミスは1931年、2回の録音で6曲を制作(6月11日と11月20日)、コロンビア時代末期の録音で、ブルーズ時代の終焉でもあった。(Bスミスはスウィング時代の1933年11月24日にも4曲録音、オウケイ リコーズが発売している)
難破ブルーズは1931年6月11日の録音。演奏はチャーリ グリン(トロンボン)、ルイス ベイコン(トランペト)、フロイド ケイシ(ドラムス)、クラレンス ウィリアムズ(ピアノ)の伴奏で、Bスミスが歌唱。
作曲はスペンサ ウィリアムズ(作詞はBスミスか)。英語原詞はブルーズの様式で、各連2行が2連、各連3行が3連の全5連。前半2連は最終行がなく、その部分は演奏だけ。後半の3連は各連とも1行目と2行目が同じ。
日本語詩は各連3行で全6連。英語原曲の不整形を調整して、原曲冒頭の呼び掛け(キャプテン!)を全連で繰り返して統一感を出した。日本語詩の初出はLP第4音盤(ブルー スピリット ブルース)のA面2曲目。
難破ブルースの発売は1932年7月15日。米国経済も難破した。翌1933年3月にフランクリン ロウズベルトが大統領に就任、ニュウディル政策で経済の立て直しを図るが、1930年代を通じて断続的にグレイトプレンズ(中西部大平原)を襲ったダストボウル(最大規模は1935年4月のブラック サンデイが最大規模)の影響もあり、本格的な経済の立て直しは第二次世界大戦 参戦(1941年12月)を契機とする軍時経済への移行を待たねばならなかった。戦中・戦後は下記の日本語詩。
1941 あの男が死んだら
1945 センチメンタル ジャーニー
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