1971年 改題、朝日樓

【朝日のあたる家から朝日樓への経緯】

朝日のあたる家 1971年6月

 浅川マキが第2LP音盤に収録した朝日のあたる家は新宿・花園神社で録音。長いライヴの雑踏音の後、萩原信義のギターソロで始まり、最後はフェイドアウトから雑踏にかぶせ、ハイヒールとおぼしい靴音のフェイドアウトで終わる。エフェクトの必要性は兎も角として、音像造りは実にシンプルで、ライヴ音源にした意図が明白に伝わる。これが萩原との初めてのパフォーマンスだったか。杉浦芳博の十二弦ギターにはレドベリの残像が仄映る。

 ギター2本と歌の編成は1965年のDワトソン歌唱音盤がモデルかと推定する。Dワトソンが超絶のフィンガーピッキングで弾きまくるのに対し、萩原はフラットピッキングでブルーズに近く更にスリリングに演奏しているのが若干の違い。Dワトソンが男性歌詞 male lyrics で歌っているのは1933年の最古音源を制作したCアシュリの版によるから。浅川は高田渡が解明した朝日樓(女郎屋)の世界をアップテンポのブルーズに進化して、朝日のあたる家の最新形とした。

日本語詩 

 浅川は日本語詩といった。自作が作詞ではなく作詩だから、訳詩でも良かったのかもしれないが、原語原文に寄り添う事が主眼ではなく、日本語の詩の新しい形が求める処だったから日本語詩になったと推定する。
 朝日のあたる家の日本語詩で浅川は何を歌ったか。原曲に出逢った浅川自身の感動の原点を探り、それを言葉に置き換えたのではないか。高田渡の朝日樓が原語原文に即して正確に日本語に置き換えた結果、原曲に肉迫するバラッド(譚詩曲)の独自形に到達したのに対し、浅川版は原曲に拘らない独自の構造を取るに到った。

 原曲の歌詞内容は出来事の生起を物語として伝えるのが趣旨、1940年代以前の版ではそのままバラッドの構造になる場合が多い。この原曲を基にしながら浅川は全詩行を第1連の主語=歌詞内容の主体から再構築した。第2〜4連は原曲のキーイメージと自身の体験・感性に基づく浅川の創作に近い。第5連は原曲では主旨。
 こうして完成した日本語詩を原曲の構造に合わせ、バラッドの構造に編曲した。第5連の後には第1連が再帰して歌詞内容が物語だったと示す。更に最終行を再現して、感動のポイントを余韻として響かせる。

朝日樓 1971年12月 

 浅川は花園神社での録音と同年の12月、紀伊國屋ホールでも朝日のあたる家を歌い、第3LP音盤に収録した。音盤発売に際してタイトルを朝日樓(朝日のあたる家)に変えた。前後の事情を勘案して括弧付きの理由を想像すると(第2LP音盤以前は朝日のあたる家と呼んでいた曲と同じ原曲の歌)くらいの意味か。
 半年前の音源と日本語詩は全く同一。楽器や楽曲の編成もほぼ全て同じ。ただ、音楽は全く別物に聴こえる。決定的な唯一の違いは12月の版、朝日樓には歌の伴奏が無い点。全曲は7つの部分。

  • ギターソロ

  • アカペラソロ

  • ギターソロ

  • アカペラソロ

  • ギターデュオ

  • アカペラソロ

  • ギターソロ

ギター演奏と歌唱は重ならない。伴奏の無い音源を演奏のモデルとして浅川は聴いた節がある。1937年録音のGターナ版ではなかったか。

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