SEとは。当てはまればあれよあれよと騙されたように自分に自信がつく記事
前の投稿での主張について、これから説明していきたいと思います。
そのためには「なぜSEが」「なぜ経理になるべきで」「なぜ地方の中小企業なのか」を順を追って説明する必要がありますが、今回はどうしてSEに着目するかついてです。
なぜSEか?
SEの多くが、もったいない人たちです。SEの力はもっと活かされ、社会へ還元されるべきものなのです。その理由の一部を今回は投稿します。
ここでの「SE(システムエンジニア )」の定義
次のたった二つの要素をもつ人たちをさします。
プログラムの経験があり、
顧客と対話できる人
通常の社会通念上の「SE」とは、システム開発における上流工程を担う人のことを言うことが多いです。その場合プログラマーを兼ねていたり元プログラマーという人も多いので、この「いわゆるSE」であればほとんどの人が上記に当てはまることでしょう。
しかしここではもっと広い範囲を対象とします。二つを少し掘り下げます。
1.プログラム経験
必ずしも納品物レベルのプログラミング経験がなくとも、テストやデバッグ用にコードを書いたことがある人、社内向けにツールを作ったことがある人、いや、もっと大盤振る舞いして何かの言語を勉強したことがある人でも良いのです。
もしくは、アプリケーションプログラムの経験はなくとも、PCのキッティングのためにスクリプトをつくったり、ネットワーク設計をしルータ設定のためにコマンド投入をしたことがある、など、機械と話したことがある人ならば素質ありです。
機械と話すといっても、「Hey!Siri!」「OK Google」などは含みません。
あくまで、電子回路によって保持されたビット情報から成る機械語を組み立てるために人間向けに抽象化された言語を介して、機械と意思疎通したことがある人です。(この説明が理解できればまず間違いない)
2.顧客と対話できる人
機械としか会話できない人はSEとは言いません。
あくまで生身たる人間と会話することで成し得る仕事をしたことがあることです。
とはいえ必ずしもシステム開発案件の対エンドユーザーとの会話のみに限らず、たとえばWEBサービスなどのBIツールを法人のシステム企画担当者に提案していた経験があればそれも良いし、それを自社に導入し展開してきたという社内SEももちろん当てはまります。
1,2 のほかにさらにいえば、予算や人員、進捗管理などの社内マネジメント業務もおこなったことがあれば完璧です。
SEはまるで大谷翔平
上記ふたつの要素は、システム開発上は連続しています。顧客の要求をシステム要件に落とし込み、仕様を決定するからです。
しかし本来は真逆の性質を持つといえます。
なぜなら、生身の人間と機械とは、コミュニケーションする上で求められる技能が大きく異なるからです。
例えるなら、猫と会話できる犬、といっているようなもので、SEはとても器用な生き物なのです。
対話が得意な人として、営業、もしくは電話のオペレーターやクレーム処理係などが思いつきます。
人間の言わんとすることや感情を機敏に察知し、逆撫でしないよう相手の心を上手くコントロールすることを得意とする人たちのグループです。
こうした人ほど、機械に対して苦手意識を持ち、むしろ「機械は言うことを聞かない」くらいに思っている人が多いことに気づきます。
これはあくまで私の経験上の実感ではありますが、理屈をこじつけるとこうかもしれません。
人間を含む生物全般は、ダーウィンの進化論を正とするならば、自己のエラーの発生があってはじめて今に存在しています。
つまり人間が一筋縄ではいかないことを当たり前に受け入れることができ、それをうまく操ることを生業にできる人は、逆に理屈しかまかり通らない無味乾燥なプログラムの世界に対し何か得体の知れない畏怖の念を感じるのでしょう。
こういった人にプログラムのコードを見せると「気持ち悪い」「頭が痛くなる」などと言います。
一方で、対機械のプロと言えるプログラマーは、曖昧さが微塵もない洗練されたソースコードを見ると「美しい」と感じます。根本的な美意識が違うのです。あまつさえ機械を相手にしている方がまだ楽、とも言うのです。
これは、極度に符号化・論理化された世界の中では、理屈が当然の結論に帰結するということが大前提にないと仕事が成り立たたず、そんな世界と向き合う時間が長いためです。
つまり先に述べたグループとは感性が逆であり、理論のない、根拠の伴わない会話によってなぜか事がうまく進んだりする状況のほうがよほど「気持ち悪い」と感じるのです。
こうした論理ありきの世界の捉え方が現代の社会を大きく前進させてきた側面は否定できません。これからも活用されていくものです。
他方で、経営者レベルの判断に際しては、芸術的センスなどの情緒的な感性が論理以上に良い結果をもたらすことがあるということも言われてきています。
それについては下の本が詳しいですが、どちらかに偏るのではなく、それら両輪をバランスよく用いるのが大事なのです。
このように「プログラム」と「対人交渉」は一見相反する要素にみえますが、人あらずしてプログラムは意味をなさないし、システムで人間が不毛な労働から解放されるためにはプログラムが必要なため、性質は違っても必ず連続しています。
そしてこの二つをうまく結び付けられる唯一無二の存在こそが、SEといえます。
つまり上のふたつの定義をクリアしているならば、まるで二刀流大谷翔平のように本来両立しない2大スキルを有した超人の類に入っているということです。
不当に軽んじられるSEの立場
しかしまだ現時点では、SEに対する世間の印象はなかなかパッとしません。
ゲームやアニメに没頭しコミケやアイドルを愛するオタクのデフォルト職業のようなイメージさえあります。
知り合いに一人SEいたら便利じゃね?Wi-Fiの設定とか喜んでやってくれるし。ちょっと話長くてキモいけど。
などとパリピーに都合よく扱われる程度の存在に成り下がってはいないでしょうか。
技術大国などと言われた日もあった日本において、先人の知恵を積み重ねてこそ大事が成せると理解している世代もありました。
しかし新しい世代は、発想やインスピレーションを基軸として瞬間的なアイディアで勝負し、飛び級的に業界を駆け上がるような人こそカッコ良いとし、泥臭くコツコツと理論を積み上げて地道に答えを出す人は、要領が悪く融通の効かない時代遅れの人間のように捉えている空気があります。
スマホですぐ検索してそれらしい答えを見つける行動を当たり前とする世代に、一晩二晩思考した上で図書館で文献を漁るような本来の知的活動は怪訝されます。
ましてや長時間労働・徹夜・給料はそうでもない、といったSEの世間的なイメージは、Youtuberなどのそれとは比べようもありません。
AIに操られない人でないとAIを正しく導入できない
しかしプログラムを組んだことのある人であれば、他人のサンプルコードをそのまま使う危険さを知っています。たとえ参考として一部取り入れたとしても、理屈を理解しようとします。
なぜなら、自分で納得した答えを持っておかないと、バグが発生した時に辛い思いをするのは自分だからです。
また、ユーザーとコミュニケーションをとり、その立場・現場を理解してきた人ならば、いくら新しい技術でも、売り込む商材がもたらずユーザーの利点・欠点両面を理解し示すことができなければ無理な提案はしません。
とりあえず見切り発車でも売りを立てようとする営業とはスタンスが違います。(それでよく喧嘩になるのですが)
このような瞬間的な自己利益よりも理論の検証、妥当性判断、ユーザー理解を重要視する態度は、AIによって統計偏重の実践が横行し始めるときこそ重要になります。
AIは「最良と思われる選択肢」は示すが、理屈は示さない。過去の実績の蓄積から類推できる最良の解を示すだけです。
それだけでも人が効率よく動くための判断材料を与えてくれると思いますが、それ以上の高度な判断を伴うシーンに使うのは危険です。
また、AIの人工知能の仕組みがどれだけ高度であっても、当面その入出力はデジタルデータにすぎません。
そうである限り、データの準備や結果の可視化などデータとシステムの出入り口の領域を世話する人間が必要です。
何が言いたいかというと、現在においてSEがデジタルデータと人間の社会活動との仲介者である限り、どの領域にAIを活用できどの領域には使うべきでないかといった適用先のふるい分けについても、会社の経営陣から理性的な判断を求められる立場であり続けます。
これらを考えると、SEはAI導入期(※)の寵児となること受け合いであり、キモい存在どころかエモいも飛び越え、かつてデータサイエンティストがそう言われたように、「セクシー」な逸材なのです。大臣の失言についてはここでは触れません。
※自然言語など人間の五感がインターフェースとなったときには、SEの手を離れるかもしれません。それはそう遠くはありませんが、言われるほど近くもありません。
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