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源氏物語 原文つまみ読みシリーズ #初音#お正月

こちらの記事は、YouTube動画「さざき良の平安チャンネル」内の同名記事の補完資料です。取りあげた源氏物語の原文、その現代語訳、解説をまとめました。併せてご利用くださいませ。

原文

岩波文庫『源氏物語』の4巻(2018年)のP.134より引用しました。わかりやすくするため、漢字変換や読点を適宜くわえています。

「今朝、この人々の戯れ交はしつる、いと羨ましく見えつるを、上には我、見せ奉らん」とて、乱れたる事ども少し打ち混ぜつつ、祝ひ聞こえ給ふ。
  薄氷 とけぬる池の 鏡には 世に曇りなき 影ぞ並べる
げに、めでたき御あはひどもなり。
  曇りなき 池の鏡に よろづ代を すむべき影ぞ しるく見えける
何事につけても、末遠き御契りを、あらまほしく聞こえ交はし給ふ。今日は子の日なりけり。げに、千年の春をかけて祝はむに、理なる日なり。

岩波文庫『源氏物語』4巻(2018年)P.134

現代語訳(by砂崎)

「今朝、この人々(仕えている女房たち)が、(新年の祝いをして)ふざけ合っているのが、とても羨ましい光景だったから、奥方様には私がお祝い申し上げよう」ということで、(源氏の君は)冗談を少しまじえながら紫上をお祝い申し上げます。
(光源氏の和歌)薄い氷が溶けきった池の鏡のような表面には、曇りなく幸せな私たちの影が並んで映っていますね
まことに、すばらしい御間柄なのです。
(紫上の返歌)曇りなく澄みきった池の鏡に、永遠に仲よく暮らしていける私たちの姿がはっきり見えるのです
どのような事につけても(このお二方は)、いく久しき愛の誓いを、理想的に申しあげ合いなさるのです。今日は、子の日に当たっているのでした。まことに、千年をかけて祝う(=幸せを祈る)のに、ふさわしい日なのです。

レアなラブラブ&ハッピー場面

平安人は言葉の呪力を信じていました。そのため、平安文学のめでたい場面では、言葉を尽くしてその豪勢さを描写し、祝いの和歌を列挙するのが通例です。が、源氏物語の作者は、それらをかなりそぎ落としました。ドラマチックな場面のみを残し印象づける、斬新な手法だったと思われます(現代人目線では、それでも冗長に見える箇所もあるのですが、他の平安作品と比べると各段に【抜粋】なのです)。

その結果、「掛け値なく幸せ!」というシーンは源氏物語の中に、意外と描かれないこととなりました。…フィクションにおいて盛りあがるのは、やはり「動き」がある場面ですからね…。恋が実るか否かでハラハラしている最中とか、別れのシーンとか、情動を掻き乱すくだりの方が、どうしても紙幅が割かれがちです。さらに加えて、二人が和歌をラブラブと詠い交わすシチュとなると、いっそうレアになります。平安の恋歌は、「どうして冷たくするんだい」「アラどうせ口先だけでしょ」というパターンが定石でしたから。

という訳で、お分かりいただけることでしょう。夫婦二人がまったり睦まじく歌い交わしているこの「初音」シーン、源氏物語としても平安和歌としても稀有な情景なのです。特に紫上の確信に満ちた詠いぶりは、この後の成りゆきを知っていると、なかなか胸に迫るものがあります。

「永遠」を表す「千年」

ここで紫上が詠った語句「よろづ代」が、続くナレーションで「千年の春(=新春つまり新年)」と言い換えられている点、お気づきになりましたでしょうか。「よろづ」とは「万」のこと、代(≒世)とは、一人の天皇が位にあった時代や、一つの世代を意味します。つまり「よろづ代」とは万世のことです。この語が「千の新年」とほぼ同義で使われていることから御察しがつくと思いますが、平安人のいう「千年/万世」は具体的な期間ではなく、【数えきれない長期間すなわち永遠】の意です。

このあたり、「西暦2025年」と、千年単位の暦を常用している現代人とは、感覚が異なる点と言えましょう。当時は、元号さえ数年でコロコロ変わり、一条天皇の治世25年が歴代最長、奇跡的な在位期間と瞠目された時代です。平安人の言う千年が、大ざっぱに「とこしえ」を意味しても無理はありません。…ただし、紫式部センセが生きた時代から数えて、今は約1000年後に当たります。我ら、【永遠】の果てに生きているのかと、読むたびにシミジミしてしまうのです。

紫上の幸せぶりと、「千年」とが感慨深いこのシーン。ぜひぜひ、声に出して読んでみてくださいませ。

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