夫婦同姓 ― 明治近代化の成果
現在の夫婦同一氏(うじ=姓)は、明治31年(1898年)に施行された明治民法によって法的に規定された。それ以前は明治9年(1876年)の太政官指令15号によって夫婦別姓が定められていた。つまり明治31年までは夫婦別姓だった。
姓制度の変遷
一般に徳川時代には,農民・町民には苗字=姓の使用は許されなかった。
明治3年9月19日太政官布告
平民 に姓の使用が許される
明治8年2月13日太政官布告
姓の使用が義務化される
明治9年3月17日太政官指令
妻の姓は実家の姓を用いることとされる(夫婦別姓制)。
上記指令にもかかわらず,妻が夫の氏を称することが慣習化していった
明治31年民法(旧法)成立
夫婦は家を同じくすることにより,同じ姓を称することとされる
(夫婦同姓制)
昭和22年改正民法成立
夫婦は婚姻の際に定めるところに従い,夫又は妻の姓を称することと
される(夫婦同姓制)
夫婦同一姓にした理由
何故長い歴史のある夫婦別姓を夫婦同一姓にした理由ははっきり分からないが、明治時代の初期、フランスの政治思想書が積極的に翻訳され、明治政府はフランスの思想の影響を強く受けた。特にナポレオンコードと呼ばれるフランス民法典に強く影響を受けたと思われる。
フランス民法典を起草したポルタリス(1746-1807)は家族と国家との関係を次の様にのべている。
「家族という小さな祖国を通じて人は大きな祖国に連なる」
明治憲法下の民法においてこの「家族という小さな祖国」は血族集団である一族から独立し、個人となった夫婦二人が築いた家と考えたようだ。
この「家族」は、前近代における「家」のように、戸主権が主体の家にも、社会にも、国家にも従属しない、個人が独立した存在であり、独立した個人が作り上げる「新しい家」の集合が祖国になる。
「新しい家」は社会の中で唯一存在であり、家の名前「姓」は統一した戸主の名称とした。
現在の夫婦別姓の議論は、前近代における「家」の延長として議論されているが、明治の先人は夫婦同姓こそが、個人主義による平等の成果だと考えていたようだ。
「新しい家」は国を構成する最小社会なのだが、夫婦別姓として二つの名称を付けると、最小社会とは言えなくなり、社会が分裂=家が分裂してしまい、家は無くなってしまう。
但し、家をどのような名称にするのかは別問題で、さらに考察するところだろう。
夫婦の姓(家の名称)はどこの国も曖昧なところがあり、対立を深めると混乱するばかりになりそうだ。
先駆者の言葉
明治政府が、日本の各種法律、税制、制度を創るときに、大隈重信が
深沢栄一に言った先駆者としての言葉がある。
「我等は如何にも何でも知っている様である。
ところが我等も全然知識がないのだ。
そうだろう。一体新しい事をやるのに、従来の習慣などは役には立たぬ。
新政府が計画している諸制度に就いて、参考になるべき昔の法律などと云ふものはありはしない。
全てが新規蒔き直しである」