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梱包権をめぐる逆鬼ごっこ - 映画『箱男』について

僕たちは見られる。

「優しい人」「まじめそうな人」「おっちょこちょいな人」「腹黒い人」「意識高い系」「サブカル系」「肉食系/草食系」「量産系/非量産系」「新宿系」「下北系」「六本木系」「チャラ男系」「陰キャ系」「Z世代」「ゆとり世代」「いい奴」「ヤバい奴」「メンドウな奴」……。

しかし他者たちは、決して僕たちを「理解できた」のではない。彼らにとってなじみのある、理解しやすい〈箱〉の中に、僕たちを梱包しているだけである。

たしかに僕は優しい。でも「優しい人」ではない。僕はまじめである。しかし「まじめな人」ではない。ときに僕はおっちょこちょいをやらかす。しかし「おっちょこちょいな人」ではない。

「君って○○だよね」と決めつけられるたびに、「そうじゃない!」と反抗したくなる。肯定的なものであれ、否定的なものであれ、他者の視線は窮屈で、むず痒くて、苛立たしい。視線は牢獄であり、評価は暴力である。僕の一部を言い表すにすぎない言葉が、僕のすべてを覆い尽くしてしまう。サイコロの本質は1でも2でも3でもない。

〈箱〉は、包む引き換えに閉じ込める。運ぶ引き換えに支配する。守る換えに陳列する。

だから、僕たちは自ら〈箱〉をかぶる。

梱包を逃れる自由がないのなら、せめて梱包箱の種類は自分で決める。「おっちょこちょいな人に見られる」のと、「おっちょこちょいな人を演じる」のはまったく違う。そのとき他者は僕を梱包するどころか、むしろ僕の〈箱〉の表面に梱包される。〈箱〉は梱包をミスリードするためのおとりであり、そして他者を梱包し返すための隠れ蓑でもある。

だから営業スマイルはどこか不愉快だ。それは笑顔の起源が威嚇である、という生物学的事実とおそらく無関係ではない。

そして厄介なのは、〈箱〉をかぶったからと言って完全には自由になれないということだ。他者は愚者じゃない。〈箱〉のミスリードに大人しくコントロールされているほどお人好しでもない。

「おっちょこちょいな人のふりをした、ただの怠け者だよね」「おっちょこちょいな人を演じてる、ぶりっこだよね」「おっちょこちょいを装った、腹黒い奴だよね」。

そう他者が「梱包し返す」ことは可能だし、いずれ必ずそのときはやってくる。〈箱〉の防御は完全ではないし、時とともに風化もするからだ。

たとえばフワちゃんは、鉄壁の〈箱〉をかぶって世に現れた。

蛍光色の衣装を身にまとい、末っ子の宇宙人みたいな髪を結い、誰にでもタメ口で、暴力的なほどの失礼を働いて回った。大人たちが潜在的に恐れていた「Z世代」が、悪夢の彼方から具現化したかのような異彩だった。しかも巧妙なのは「そのZ世代キャラはあくまでキャラであって、本当のフワちゃんはマジメで頑張り屋なんだよ!」という内側の〈箱〉を、蛍光衣装の隙間に垣間見せていたことである。

フワちゃんの〈箱〉は、二重構造ゆえに鉄壁だったのだ。

だから誰も彼女に怒ったり、世の常識に従わせようしたりはしなかった。それは彼女が「愛され上手」だからでも「人たらし」だからでもなく、「私にキレる奴はダサくて器の小さい奴だよ!」という〈箱〉をいつでも相手に投げつける構えをしていたために、恐れられていたのである。頑強な武力が頑強な政権の源になるように、頑強な〈箱〉は彼女に頑強な梱包権をもたらしたのだ。

今回彼女が芸能界から退場させられたのは、コンプラに触れたからでも一線を超えたからでもない。彼女がコンプラに触れ、一線を超える存在であることは旧知の事実である。しかし使い古された彼女の〈箱〉はすでに防御力を失っていた。だからもはや世間からの梱包を退ける力を持たなかったのではないか。

――という理屈によって、僕は彼女の梱包に成功したと思い込むことに成功するのである。


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