ところで、愛ってなんですか? [第4回]
日曜日は、空が明るくなり始めたらBARを開けることにしている。朝はいい。姿の見えない鳥が鳴いていたり、昨日の続きを酔っている人がいたりする。人と世界、人と人との距離が、少しだけ離れている感じ。魂もまた、躰からちょっと遠くに行ってしまっているみたいだ。そんなとき、猫も人間も伸びをする。遊離した魂を元の場所に詰め直すみたいな静かな作業だ。
薄いひかりが積もったカウンターを眺めていると、からんとベルを鳴らしながら扉が開いた。濃紺のスーツの女性が淡い太陽を背に短く会釈をする。真新しいのに襟も袖も不思議なくたびれかたをしていた。
「東京で働こう思っていま就活してて、でももう疲れちゃって」
「東京には大学から?」
「はい、はじめは寮で、今は一人暮らしで。地元に帰りたいような、帰りたくないような、東京にいたいような、いたくないような、もうわからなくなっちゃいました」
ふるさとのことは、愛してるし憎んでもいる。今暮らしているこの街のことだってそうだ。場所は、単に場所としてだけ存在するのではない。そこにある人間関係や、学校や仕事や、天気や匂い、そして私自身の過去や記憶を内包している。どこでも同じ私でいられるはずもなく、水がコップの形に輪郭を合わせるように、私は私の心身を土地に馴染ませなければならない。ふるさとを愛したり憎んだりするのは、そこにいる自分のかたちを愛したり憎んだりするのと同じこと。自分を愛せなければ、その場所を嫌いになってしまう。
愛することと憎むことは同じことの裏表なのだと誰かが言っていた。
彼女の両義的な気持ちは、決して矛盾しているわけではないんだろう。帰りたいような、帰りたくないような。彼女は自分の気持ちがわからないんじゃなくて、すごくよくわかってる。だから、わからないんだ。
たくさんの人が眠り、起き、移動し、また眠る大都市。それぞれがそれぞれの人生のある一瞬を偶然にも共有している。ひとりひとりの心の中には「会いたさ」が目に見える形で、あるいは見えない形で仕舞われている。それは遠くに住む家族のことかもしれない。去年別れた恋人、しばらく遊んでいない友達、あるいは好きなアーティストかもしれない。誰かを思う気持ちが一つの巨大な会いたさの塊になって、東京上空を覆う。ほら、例えば夜、明治神宮野球場のあたりが明るいなって思うときがあるでしょう。それは現実には雲に反射したナイターの照明なんだけど、でもそれだけじゃないような気がする。
あのひかりは、東京のすべての会いたさだ。
エレベーターの薄暗い光だって、残業している部屋の蛍光灯だって、歓楽街のネオンだって、どれも等しく会いたさだ。
心の中にいる「あたし」は「わたし」という躰をどうにか飼い慣らしながら、巨大な会いたさの渦の中の、小さな一粒として生きてゆく。
ふるさとと今暮らしている土地が遠く離れている時、ましてやそこに国境があれば、会いたさはもっと強いひかりになるのではないか。
異国である日本に暮らし始めて、友達もできた。遊びに誘うと「行けたら行く」と言ってくれる。やった。わくわくする気持ちで待っていたのに、友達は来ない。そんなことが何回も続いたある日、はっと気づいてしまう。その言葉は婉曲な断りを意味していたことを。口の中で飴を溶かしている間に、反故にされたいくつかの約束の意味がほぐれてゆく。遠い国で、ひとりぼっちでずっとずっと待っている。私がほんとうに会いたいのは誰だろう?
ふるさとから離れて暮らすことは、少しずつ別の世界のルールを知っていくこと。どこにもルールブックはないから、剥き出しの心と躰で識ってゆくしかない。
「私たちはそうやって誰かを傷つけているのかもしれない。優しさのうちに」
彼女はそう言って、カウンターのテーブルを撫でた。不規則に波打っている木目は、傷痕にも見える。一年一年成長するたび増えてゆく傷。人間にはその痕が残っていない。残っていなければ、傷はないことになってしまう。
マッチに火を灯した瞬間、目の前の海には深い霧が立ち込めているのが見える。霧から霧へ、炎のひかりが沁み渡ってゆく。果たして私には、自分自身の人生を捧げるほどのふるさとがあるだろうか。命を賭けるほどのふるさとが?
マッチの火は一瞬にして消え、霧も、海も、その向こうにあるはずの祖国も闇に沈む。
ふるさとなんてない。そんな顔をして生きなければならないことだってある。
「この海を泳いでいけば、地元に帰れるって、何度も思いました。東京湾を眺めて、何度も。でも泳ぐことはしなかった。あんなに寂しかったのに」
「ふるさとではどうだった?」
彼女は、少し考えてから静かに首を振った。「やっぱり寂しかった」
私たちのほんとうのふるさとはどこだろう。澄み切った夜の広い広い空を見てこんなに寂しいのは、この宇宙に、私のふるさとを見つけることができないからかもしれない。生まれる前のことを私は覚えていないし、命を終えたあと、どこへ行ったらいいのかもわからない。生きている今だってそうだ。わたしたちはどこにも釘を打つことができず、命綱もないまま、ふわふわ浮かんでいるみたいに不確かだ。
そうだ。ふるさとって単純に生まれた土地や家のことだけじゃない。久しぶりに実家に帰っても、なにか居心地が悪くなってしまって一人暮らしの部屋に戻ってきてしまったりする。
あるいは、外を歩き続ける老いた父や母たち。彼らは、彼女らは、帰る場所をずっと探し続けているのに見つけることができない。探しているのは、記憶の中にある街であり、記憶の中にある家族だからなのだろう。今この世に存在しない世界を訪ねているのだから、どうしたって辿り着くことができない。
では、どこへ帰ればいい。
箱庭のような砂漠に、瓦斯燈を植えてゆく。すると、そこは明るい灯の点る街となり、人が集う。風に儚く消えてしまいそうな、脆い砂の街。
広い宇宙の、ずっと田舎にある天の川銀河の、ずっと田舎にある地球で暮らしている私たち。今ここに、自分の手で、自分の街をつくればいい。いつでも帰れると思えば、宇宙の果てにいても大丈夫。寂しさを理由に、やけくそに未来を選んだりしない。
「私もう少し、ここで就活を続けてみます。ここを新しいふるさとにする。いくつあってもいいですよね」
***
彼女がドアを開ける。いつの間に太陽はずいぶん高いところまで昇っていた。
そういえば、愛と憎しみの話には続きがあった。愛の反対語は、憎しみではなくて無関心なのだと。
太陽がそこにあって私たちを照らしているのは愛でも無関心でもない。もちろん憎しみでも関心でも。
それでいい。それだからいい。