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ところで、愛ってなんですか? [第2回]

デビュー歌集『夜にあやまってくれ』から現在にいたるまで一貫して「愛」を詠みつづけてきた歌人・鈴木晴香さんが、愛の悩みに対してさまざまな短歌を紹介します。月一回更新予定です。バックナンバーはこちら

BARの開店よりずっと前から、あたりは暗い。冬だ。
夏と冬どっちが好き、という質問に、生きている間にときどき巡り合う。その問いが投げかけられるのは、当然かもしれないけれど決まって夏か冬だ。そんなとき、夏には冬と、冬には夏と答える。だって、いま目の前にないものを愛したくなるものでしょう?

ここは愛の相談所〈BAR愛について〉。店を開けてしばらく本棚の埃を拭いていると、埃がライトに当たりながらきらきらと落ちてきれい。ひかりにあたるとき、埃はひかりのぶん重くなったりするんだろうか。
冷たい風に気づいて振り向くと、入り口のドアが開いている。ダークグレーのスーツに水色のシャツ、青いネクタイをきっちりつけた男が足をそろえてこちらを向いている。メガネのレンズはそこにあることがわからないくらい透明に磨かれていた。外との温度差でメガネが白く曇りはじめて、そこでやっと、レンズがあることがわかるくらい、透明なレンズ。

「自分を愛するにはどうすればいいんでしょうか」
コートと鞄をカウンターの隣の席に置いてから、彼はまっすぐに私の目を見て言った。丁寧に服を着ている。眼鏡を透き通るまで磨いている。でも、それは彼にとって自分を愛している証左ではないらしい。不思議なことに。

「どうすればいいのか、というのは、愛したいけれど愛し方がわからないっていうことでしょうか。それとも、自分が嫌いで愛せないということ?」
「僕にもわかりません。両方かもしれない。自分の嫌なところばかりに目が行ってしまうんです。愛したほうがいいのだということはわかっているんですが、どうにも」

ポケットから小さな布を取り出し、彼は眼鏡を拭いた。もう透明になっているのに、拭くのをやめない。

自分をどんなふうに愛すればいいのか。愛せない自分をどうしたらいいか。それを考える前に、ちょっと答えを先取りして、自分を愛したらどうなるのかというゴールを見てみた方がいいのかもしれない。走り方は、ゴールが百メートル先にあるのか、一万メートル先にあるのかで全然違うから。

手でぴゃっぴゃっ
たましいに水かけてやって
「すずしい」とこえ出させてやりたい

今橋愛『O脚の膝』(書肆侃侃房)

目には見えないものであるはずのたましいに水をかけるというイマジネーション。そのイメージを補強する「ぴゃっぴゃっ」のリアリテイ。たましいには激しく水をかけてはだめで、手でちょっと飛ばしてあげるくらいがちょうどいいみたいだ。ビニールプールで喜ぶ子供みたいに、たましいが笑いながら飛び跳ねているのが見える。「つめたい」ではなく「すずしい」。その心地よさ。
自分を愛するということは、こんなふうにたましいに声を出させてやることなんじゃないか。暑いって言っているたましいの声を聞いて、すずしいって声を出させてやる。痛いとか、逃げたいとか、そういう声だってちゃんと聞いてやる。そういうことなんじゃないか。

「たましいに水をかけるって、だけど、どうやるんですか?」 

私は壁の本棚をしばらく眺め、もう一冊の歌集を選んだ。『死ぬほど好きだから死なねーよ』。こんなにも矛盾に満ちていて、こんなにもまっすぐな告白がこの世にあるなんて。この「好き」の相手が自分自身であったっていい。そう思いながらページを開く。

祈り方を忘れてしまう手を合わせるかたちではなく心のさまを

石井僚一『死ぬほど好きだから死なねーよ』(短歌研究社)

例えば黙祷するとき。目を閉じて手を合わせて一分間じっと待つ。
そう、それでいい。
誰もみな「あなたは正しく祈っていた」と言うだろう。でもわかる。こころは祈ってなどいなかった。からっぽで風がすーすー吹いていた。名を呼べばいいのか。顔を思い出せばいいのか、冥福をお祈りしますと口の中で呟けばいいのか。どんな心でいることが祈ることなのか思い出せない。
祈るって何だ。
いや。目を閉じることも、手を合わせることも、祈りとは関係がないのではないか。いま、横断歩道を駆けている人が、パスタを巻いている人が、祈っていないとどうして言えるだろう。周りを見渡してみる。みんなが目を閉じている。みんなほんとうに祈っているのだろうか。
自分の愛し方も、祈り方と同じかもしれない。たったひとつの答えなどはじめからないんだろう。手を合わせることが祈りではないように、「一日五分○○して愛せる自分になる!」なんて、ぜんぶぜんぶ嘘だ。
自分を愛せないときほど、外側を強固に、美しく取り繕うことにこだわってしまうのかもしれない。磨かれた透明な眼鏡は、自分を愛している証しなんかではない、自分が自分に愛されていない証拠だったんだ。

そうか。自分を愛するためには、愛することもうまくなければならないし、愛されることもうまくなくてはならない。だから難しい。

くちびるをあわせることをゆるされてはじめてしったやわらかい他者 

真野陽太朗『水路をひらく』(SHIBUYA PUBLISHING & BOOKSELLERS)

ずっと思っていた人にいま、初めてくちびるを重ねる。びっくりするくらいにやわらかい。でも。そのやわらかさがどこまでも他者のものであることも同時に知ってしまうことになる。柔らかいと感じられるということは、それが自分の外側にあることだから。その永遠のように深い溝。
この歌では「他者」だけが漢字で書かれることで、他者の他者性が一層はっきりと浮かび上がっている。活字を追う目の中で「他者」が揺るぎないものになる。「やわらかい他者」はどこまでも愛おしく、どこまでも遠い。
自分という存在がいちばんの他者である。というのが正しければ、他者をはじめて知るときのように、ゆっくり、ゆっくり、自分自身にくちびるを重ねて、その柔らかさを確かめればいいのかもしれない。いきなり愛そうとするのは早すぎるし、答えを急ぐのは乱暴だ。まずは、そっと触れてみなければ。

ひとりだから話さず歩いている夜に音楽みたいだよ足音は

岡野大嗣『音楽』(ナナロク社)

ひとりで歩いているとき、話さないのはほとんど当たり前のことなんだけど、改めて「ひとりだから」と言われるとその現実が遊離するように思えてくる。静かな夜の静かな道に、自分の足音だけが響く。言葉のない闇。そこに確かなリズムとメロディが刻まれてゆく。ああ、これが音楽か。誰かと喋りながら歩いていたときには気づかなかった、自分自身の奏でる音楽。
自分で音楽を奏でることは、自分で音楽を聴くこと。自分を愛することは、自分が愛されること。受動と能動が同時に存在し混ざり合う世界で、今夜はもう少し先まで歩いてみようか。自分自身の足音に耳を傾けるとき、たましいが「たのしい」って言っているのもちゃんと聞こえるはず。
それが、自分を愛するってこと。さっき見ていたゴールだ。

***

男ははじめと同じように深くお辞儀をしてドアを開けた。いつの間にか、雨が降っている。彼は眼鏡に雨粒が当たるのも気にしない様子で歩き始めた。私はその足音が消えてしまってもしばらく、夜に耳を澄ましていた。

看板はすっかり濡れて、触れるのが怖い。そうか、彼も怖かったのかもしれない。自分を愛することが。
「愛するのが怖いの?」ってはじめに訊いていたら、どんな夜になっていただろう。そんなもう一つの夜を思いながら、看板の電源コードを引っこ抜いた。

鈴木晴香(すずき・はるか)
1982年東京都生まれ。歌人。慶應義塾大学文学部卒業。2011年、雑誌「ダ・ヴィンチ」『短歌ください』への投稿をきっかけに作歌を始める。歌集『夜にあやまってくれ』(書肆侃侃房)、『心がめあて』(左右社)、木下龍也との共著『荻窪メリーゴーランド』(太田出版)。2019年パリ短歌イベント短歌賞にて在フランス日本国大使館賞受賞。塔短歌会編集委員。京都大学芸術と科学リエゾンライトユニット、『西瓜』同人。現代歌人集会理事。


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