【その2】夢見たハイクラス
私は実業団を辞め、しばらくして会社も辞めて実家に戻った。
その当時流行っていた医療事務の専門学校に入学した。専門学校は短大卒と同等の学歴になるとどこかで聞いたことも、私にとっては自分の中の誰にも言えない学歴コンプレックス解消になりそうな響きがあった。
早稲田大学の社会人入学を考えていた時もあったが、4年間これから大学に行って、卒業時には26歳になったこの私に何ができるのさと考えたら怖くなって、そこでまた思考は停止、「役に立つであろう、仕事になるであろう」という実利を取りにいくことを選んだ。
そこでは高校を卒業したばかりの子たちとクラスメートになり、単純にとても楽しかった。
秘書検定や簿記、医療事務の資格を取る勉強も楽しかった。何かに向かって学んで結果を出すことがすごく快感だった。
当時、3年くらい付き合っていた同じ年の彼がいたけれど、人材派遣のバイトで知り合った20歳近く年上の高学歴で高収入の税理士であるその人との会話や世界が刺激的で、冴えない今の自分をどこかキラキラした世界に連れて行ってくれそうだった。そして彼といつしか恋愛関係になった。
彼にとっては日常のように見える高級なレストラン、豪華なホテル、高級ブランドの服やジュエリーをプレゼントされ、お芝居をよく一緒に見に行った。知的な彼と会話している自分が急に価値の高い女になった気がした。
こんな人に認められる私だったんだ!ほら、やっぱり私は大学に行くべきだったんだ。
視野の狭い父や母が憎い。私の可能性が潰された。実業団に進んだあの選択は間違いでしか無かった。でも彼に出会えたからもう私は大丈夫。彼と一緒に生きよう。彼と結婚してお金にも困らない余裕のある暮らしをしよう。
こんな考えが私の頭の中にこびり付くほどに反芻されていた。
彼が見立てた服を着て、買い与えられた高級時計をして、さらにチグハグさの勢いが加速した。それでもいつしかその不釣り合いなチグハグさにも慣れていった。
同時に、ぬぐいきれない真っ黒い澱のような不安や自信のなさがさらに内側で膨らんでいった。彼との会話の端々にコンプレックスを刺激されたが、徐々に思考停止することにも慣れていった。けれど彼といたら幸せだし、満たされている世界だった。
彼との時間以外のすべての日常世界への不満も我慢していれば大丈夫だった。
行きたくない会社も月曜日から金曜日まで我慢していれば、待ちに待った楽しい土日が来る、そんな感覚に近かった。
そんな時間が終わったのは、彼と付き合いだして1年位経った頃だった。
確か彼の実父がガンのステージ3を医者より申告されたが、年齢もあって3年は生きると言われたらしい。彼と今結婚したら、必然的に私が中心となって介護をすることになる。
まだ24、5歳のさゆりちゃんにそんなことはさせられない。さゆりちゃんが苦労すると分かっているのに結婚なんてできない、泣きながらそう言われた。四国の人だったから結婚するとなると四国への移住も伴う。
「別れよう、君の将来のためだ。君は自分が思っているよりも遥かに賢く美しい。これからの人生を僕は遠くで見守っているよ」
失恋というよりも将来への希望がなくなった。あぁ、せっかく人生逆転できると思ったのに。
確かそんなことを思った気がする。
「もう誰のことも好きになれないかもしれない」と(その後幾度となく何度も思うことになる)強く思った。
彼と別れてしばらくしてから宇多田ヒカルの「first love」がリリースされたのを覚えている。この歌を聞くとさゆりちゃんを思い出して辛くなるよ、と誕生日になった途端の夜中に電話があった。
あぁ、エモい。エモ過ぎるぜ。
なんだかエモさって人間に与えられた媚薬みたいだな。一瞬であの時のあの感覚に戻れる、戻りたくなってしまう。
今ならそうとしか思えないけれど、当時はしっかり悲劇のヒロインとして悦に入っていた。
あぁ、やっぱり馬鹿で愛おしい。
24歳のさゆりさんが愛しくて可哀想で可愛いよ。
次に続く。