見出し画像

自分を赦すことの完成形

昨日こんな記事を書いたけど


「自分を赦す」ってことの究極の形、完成形は

存在そのものを赦すってことなんだよね。


いくつか前の記事で罪悪感の正体とか
いろいろ書いてたけど、


「赦しってなんのためにやっているの?」

「それをして何になるの?」

「どこへ向かっているの?」


って言うのは、結局

『存在への絶対承認』なんだ。


ただ、存在している。

それだけでいい。

という究極の在り方へと私たちは向かっているんだよね。
(少なくともわたしは向かいたい。)


「何かしてないと、ソワソワする」とか
「何もしないのが苦しい」っていう人は

この絶対承認ができてない。

何もしてない自分には価値を感じられないからこそ
じっとしてられないのだよね。


それは、限定承認なんだよね。

限定承認て言うのは、

何かをしてたらOK!で
頑張らないとだめ!とか
こうなったらいいけど、あぁなったらダメ。とか

自分がただ生きてること。
ただ存在すること。
それだけでは、許されないんだよね。

何もなくて、何もしてなくて
存在しててはいけないと自分を罰してる。

何かをしてないと・・・ 
努力してないと・・・
リア充してないと・・・
楽しくしてないと・・・
ワクワクしてないと・・・って

本当は、じっとしてたら自分を苦しめる罪悪感が沸いてくるから
だから、何もせずにはいられないんだ。
嘘でも楽しぶってないと不安に押し潰されてしまいそうで。


それが限定承認。

ただ、存在することだけでは赦されない。

そして、それこそが罪悪感の正体で、

辛くなる理由。

悲しくなる理由。

寂しくなる理由。でもある


孤独はソースから分離していることを教えてくれている。

本当は分離などしていないのに。


何かをしたら素晴らしい!と思えば思うほど
何もしない自分は素晴らしくないと思う。

人気やフォロワーに価値があると思えば思うほど
何もない自分に価値はなくなってしまう。

お金を稼ぐ人はえらい!すごい!と思えば思うほど
お金は稼がない自分は惨めで、ちっぽけだと思ってしまう。

楽しくしてる自分は良くて
楽しくしてない自分はダメ。


いつも、右か左かで
振り子が、どちらに触れているか。だけ。

それはどこへも向かっていないのだ。


右か左の2極の世界では幸せを見つけられない。


どちらかに光を見れば
どちらかは闇となる。

そして、闇を見ないよう
闇に堕ちないようにと
もがけばもがくほど
底無し沼から抜けられない。


だからと言ってエセポジティブでは、本質を射抜けない。
光だけに真実はないから。


私たちが向かっているのは

存在への絶対承認。

本当は、存在しているだけでいいんだと

今この瞬間に、いつも安堵してられること

それが究極の幸せ。

それだけで幸せだったのだ。



いつからか誰かが、存在しているだけではダメだ!と言い出した。

私たちはそんな言葉と価値観の奴隷となり
一生懸命、何者かになろうとしていたんだ。


本当は、何者なんかじゃなくてもいい。

この名前も、この肩書も、この肉体も捨て去って
何もない「わたし」になった時、

あなたは、「わたし」は誰だ、と言うのだろうか。


sayuri








いいなと思ったら応援しよう!