あいまいえで過ごした日々
◆はじめに
私は中学生くらいから日記をつけていて、記録として文字に残すことは嫌いではない、むしろ好きだと思う。でも、誰かにみてもらうと思うと、身構えてしまって、上手く書けず・・あいまいえの振り返りも何度も書いては消し、書いては消しを繰り返していた。結局日記の延長みたいな文章になってしまったけれど、もしよろしければ最後までお付き合いください。
◆初めてのあいまいえ
2019年2月2日、私は初めてあいまいえに足を踏み入れた。自分のつけている日記にもちゃんとその記録は残っている。親友がシェアハウスに住み始めたということを聞いて、大学時代の友人数人で遊びに行った。シェアハウスってどんな感じなのか想像ができなかったけど、遊びに行ったら、おしゃれな空間が広がっていて、素敵だなと思った記憶はある。そして、親友のシェアハウスの暮らしぶりを聞いて、面白そうだなと思ったものの、社交性ゼロ・人見知り・緊張しいな私はシェアハウスに住むことはないのだろうな…と漠然と思って、その日は終わった。まさか将来が自分がそこに住むことになろうとは、夢にも思わなかった。
◆あいまいえへの誘い
2019年7月6日、親友からあいまいえに住まないかと誘われた。以前、全部で6人しか住んでいないし、なかなか部屋が空くことはないと聞いていたので、このタイミングで部屋が空いたことにはとても驚いた。誘いを受けてすぐに住んでみたいと思ったものの、自分の人見知りな性格を考えると、シェアハウスで暮らしていけるのかと疑問は残った。加えて、以前遊びに行ったときに感じた社交的・活動的・精力的なあいまいえの雰囲気になじめるのかも不安であった。でも、それよりも実家を出たかったこと、家賃が安いこと、新しい世界に足を踏み入れることにワクワクしたことを感じて、あいまいえに住むことを決めた。
◆戸惑いの連続
2019年9月1日、私はあいまいえに住み始めたけど、最初は戸惑いの連続でしかなかった。
印象に残っているのは、入居早々に行ったキャンプ。そもそも、私はキャンプに行き慣れていないので、行くことも少しためらっていた。そんな中で行ったら、みんなでBBQをしたりするだけでなく、対話をする時間が設けられていて、そうしたことに慣れていない私にとっては、物凄く緊張する時間だったのをよく覚えている。隣にいる親友に「何話せばいいのかな、私みんなと比べたらうまく話せないけど大丈夫かな」って何度も確認した。具体的に何を話したのかはあまり覚えていないのだけど、緊張でちょっと声が震えていた私の話もみんなじっくり聞いてくれて、とてもあたたかい気持ちになったのは今でもよく覚えている。
◆新たな自分の発見
2019年の秋、あいまいえに徐々に慣れてきたころ、自分の新たな一面に気づかされることがあった。
例えば、早起きのこと。私はおばあちゃんみたいに早起きで、それは自分にとって当たり前だったけれど、あいまいえのみんなに「早起き過ぎてびっくりする」「朝ごはんから作ってるとか信じられない」とか言われて、自分では当たり前だと思ってしていることも、まわりから見たら違う風に見えるのかとハッとさせられた。
そんなことは当たり前じゃないかと思う人もいるかもしれない。他人に指摘される前に、自分のことなんて自分が一番知っているって言う人もいるかもしれない。でも、私は1人で気づける自分の側面ってきっと限界があるのではないかなと思う。そんな自分の意外な良い一面、時には目を背けたくなるような自分の一面も、住人やあいまいえに足を運んでくれた人と交わることで知ることができて、あいまいえに住む前と比較して、自分のことをより深く理解できた気がした。
◆価値観の違い
2019年の冬、あいまいえが日常に溶け込んできたころ、価値観の違いについて考えさせられることがあった。
大広間やキッチンの使い方、鍵のかけ方、食器の洗い方など、当たり前だけどみんなが心地いいと感じる尺度はそれぞれ違っていた。でも一緒に生活をするには、擦り合わせをしないといけない部分もある。ただ私は日々少しづつ感じていたモヤモヤを、上手くみんなに伝えられずに、自分の中で抱え込んでしまっていた。それが積もりに積もり、あいまいえを出ようかなとすら思うようになった。でも、キャンプの夜にみんなで対話したことを思い出して、伝わらなくてもいいから、一度自分の考えをみんなに伝えてみよう、対話してみようという気持ちになった。
今でもよく覚えている、クリスマスの日の朝、みんなに私の思いを伝えた。詳細はここでは割愛するけれど、みんな真剣に話を聞いてくれた。私の思いや考えを100%分かり合えたかというとそれは違うと思う。分かり合えないことを理解し、その中で妥協点を見出したというのがしっくりくる気がする。
生きていく中で他人と分かり合えることよりも分かり合えないことの方が多いと思う。分かり合えないかもしれないときに、その後の選択肢は、自分の考えを分かってくれないだろうから伝えるのをやめるか、分かり合えないことを分かるために伝えるかの2択だと思う。前者は容易いから、ついこちらを選択したくなる。一方でこの時私が取った選択は後者。自分の考えを伝えることは、みんなに否定されるのではないかとか色々なことが頭をよぎって、物凄く勇気のいることだった。でも、真摯に相手に向き合えば、相手も受け止めてくれる。それは必ずしも分かり合うということでない。分かり合えないときは、それを分かり合うことだけでもいい。そんなことを身に染みて実感した。
◆ありのままの自分
2020年の春、あいまいえで過ごすのが当たり前になったころ、コロナウィルスの影響で、日常生活も価値観も大きく一変した。それまではみんな活動的で、週末一緒に過ごすことはほとんどなかったけれど、ステイホームになり、ごはんを作ったり、ドラマを見たり、散歩に行ったり、みんなで過ごす時間が増えた。それに伴って、みんなとの関係性もぐっと縮まった気がする。関係性が縮まると、今までは隠せていた自分の見せたくなかった部分もあらわになってしまうこともあった。自分の見せたくない部分を見られてしまった、そんな自分が嫌でたまらなくて、何度も何度ももがいた。自分の嫌な部分を無理に変えようともした。でもそんな私のこともあいまいえのみんなは、まるごと受け止めてくれた。それでも、私はなかなかありのままの自分を受け入れることはできなかったけれど、そんな私でも少しは自分のことを受け入れられるようになった。ありのままの自分で良いんだって思えるようになったのは、確実にあいまいえのおかげだと思う。
◆おわりに
2020年の冬、あいまいえを出て約2か月が経った。あたりまえだけど、あいまいえで過ごした生活の記憶は薄れていっている。けれど、そこで得られた気づきは自分の奥底にちゃんと刻まれていて、折に触れて思い出される。
あいまいえという場所がなくなってしまったことに対して、寂しいという気持ちがないというのは嘘になる。けれど、あいまいえで築かれた関係性は、今後もずっと変わらずに続いていくように感じている。ありきたりな言葉だけれど、一緒に住んだみんなをはじめとして、あいまいえで関われたみんなと出会えて本当によかった。
ありがとう、あいまいえ。