トマとの出会い(フランス恋物語④)
理想と現実
1月も半ばに入り、トゥールでの生活も2週間が経とうとしていた。
語学学校が開始して1週間経ち、授業のフランス語はだいぶ聴き取れるようになってきたが、ホストファミリーの老夫婦との食卓での会話はほとんど理解できず、そんな自分を歯がゆく感じた。
今の生活で交流できるフランス人は老夫婦と学校の先生だけで、せっかくフランスに住んでいるのに、生のフランス語に触れる機会はあまりない。
そして、ジュンイチくんとは授業初日に出会って以来、ほぼ毎日放課後を共に過ごしている。
それは、街散策だったりカフェで一緒に宿題をしたりというストイックなものだったが、私たちの間には「同胞」特有の揺るがない信頼関係と甘えがあった。
異国の地で暮らす寂しがり屋の私にとって、気兼ねなく日本語で会話できるジュンイチくんとの時間は、格好の精神安定剤だ。
「フランス人の彼氏を作る」という当初の目的とは無縁の生活だったが、「どうせ4月にはパリに引っ越すし、今はいっか。」と思い始めていた。
H&M(アッシュ・エ・エム)
高校時代英語に挫折した私は英語が大嫌いだったが、渡仏にあたりフランス語を勉強してみると、その規則性の高さと発音の美しさに魅了された。
東京に住んでいる時、その辺にある英語の看板を片っ端からフランス語で読み替える癖がつき、私はその美しい響きを何度も心の中で反芻した。
H&Mを”アッシュ・エ・エム”と呼ぶのも、私のお気に入りだ。
H&Mがフランスにも進出していると聞いて、現地で堂々と”アッシュ・エ・エム”と発音できることを嬉しく思った。
ひょんなことから、そのH&Mに私は行くことになった。
渡仏の際あまり冬服を持ってきてなかったので、トゥールで現地調達したいとジュンイチくんに相談すると、「隣町のサン・ピエール・デコーにあるショッピングモールにH&Mが入っているよ。」と教えてくれた。
そこにはバスでしか行けないと聞いて、フランスでバスに乗ったことがない私は、ジュンイチくんに「連れてって。」とお願いした。
ジュンイチくんは笑顔で「いいよ。」と答えて、私たちは日曜日一緒に出かける約束をした。
予想外の展開
「ごめん。風邪ひいて今日行けなくなった。」
ジュンイチくんからの電話で目が覚めた。
彼と休日に出かけるのは初めてだったので、キャンセルの連絡は少し残念だった。
私はどうしても今日中に服を買いたかったので、意を決して一人で行くことにした。
でも、一人でバスに乗るのは怖い。
乗り間違えたり、降りそこねて、知らない土地へ連れていかれたらどうしよう・・・。
ホームスティ先のマダムに尋ねると、トゥール近郊の地図を指さしながら「あなたの行きたいショッピングモールはここよ。」と教えてくれた。
マダムに「徒歩で行けませんか?」と尋ねると、「行けないことはないけど、バスで行くことをお薦めするわ。」と言われた。
体力に自信がある私は、徒歩で隣町まで歩いて行くことにした。
・・・その先に、予想外の出会いが待っているとも知らずに。
過信
出発したのは、ホームスティの自宅でランチを食べた後の13:00頃。
この日は雲一つない快晴で1月にしては暖かく、寒がりの私にはありがたい陽気だった。
散歩日和とも言える爽やかな天気に気持ちは大きくなり、トゥールの街を出るという初めての冒険に、私はワクワクしていた。
ホームスティ先から、H&Mの入るレ・ザトロントゥ(ショッピングモールの名前)までは、4km弱。
1時間もあれば十分に行ける距離だった。
フランスの道には一つ一つ名前が付いているので、標識と地図を照らし合わせていけば、迷わずに行けるはず。
・・・はずだったのだが。
歩けど歩けど、目的のレ・ザトロントゥらしき建物は見えてこない。
私は立ち止まって、地図と周囲にある景色とを見比べた。
親切すぎる通行人
「Ça va?(大丈夫?)」
背後から男性の声が聞こえた。
振り返ると、ジョギングウェアに身を包んだ好青年が立っている。
ニット帽を被ったその外見は、GAPとかのモデルにいそうな、典型的なフランセ。
私は地図を見せながら「ここに行きたい。」とレ・ザトロントゥを指すと、「自分も今そこに行っているところなんだ。一緒に行こうよ。」と言ってきた。
マジ!?
そんな偶然ってある!?
新手のナンパ!?
しかし迷う暇もなく、彼の爽やかさと強引さに押され、気がつけば一緒に同じ方向を歩いていた。
私は周りを見渡して、「ここは大きな国道で周りにいっぱいお店はあるし、何かあれば助けを求めて逃げ込もう」と注意を払った。
そんな私の警戒心とはよそに、彼は明るく自己紹介を始めた。
「僕の名前はトマ。君は?」
私は、東京のフランス語スクールやトゥールの語学学校でさんざん学んだ、自己紹介の典型的フレーズをスラスラと答えた。
「あぁフランス語の初歩でよく練習した決まり文句だな~。これが生きたフランス語か~。」と、今まで学んできたことがやっと実体験で役立っていると感動した。
ひと通り自己紹介を終えると、さっき出会ったばかりのナンパ師かもしれないトマは、私の警戒心を一気に解くとんでもない大技をやってのけた。
「僕は27歳だけど、実はハゲているんだ。父親もハゲなんだ。」
と言って、おもむろにニット帽を外しスキンヘッドを見せてきた。
確かに彼の頭皮は薄かったかもしれない。
しかし彫像のような造形美を持ったその顔が、全く気にならなくさせていた。
私は驚いたが、その開けっぴろげな性格に「この人ならナンパだとしても大丈夫かも?」と、この親切すぎる通行人を信じ始めるようになっていた。
自己紹介までは良かったが、雑談になるとフランス語初心者の私はうまく返せず、会話が途切れがちになった。
それを察したトマは陽気に歌ったり口笛を吹いたりして、目的地までの道のりが沈黙にならないようにしてくれた。
「この人は悪い人ではなさそうだ」と私は判断した。
H&M
トマの案内でレ・ザトロントゥに着き、無事目的地であるH&Mに辿り着けた。
「僕は近所に住んでいて、よくここにも来るんだよ。」と、トマは言った。
私は「Merci beaucoup.(メルシーボクー)」とお礼を言った後、
「ところで、あなたはこの建物の中のどの店に用事があったの?」
と、ちょっと意地悪く聞いてみた。
「何を言ってるのさ。僕もH&Mで自分の服を買おうと思っていたところだよ。」
私はどちらでも良かったので、気にしないことにした。
「あ、そう。じゃあね。」
「ちょっと待って。買い物終わったら、お茶しない?どれぐらいで買物は終わりそう?」
「う~ん、じゃあ30分。」
私たちはレディス売り場とメンズ売り場に別れ、30分後にH&M前集合の約束をした。
PAUL
H&Mで買い物を終えて店の前に出ると、既にトマは待っていて、笑顔で手を振ってきた。
ここによく来るというトマの案内で、同じ建物内にあるPAULに私たちは移動した。
「PAULといえば、東京にオシャレパン屋として進出してたな~」と思い出したけど、フランス国内では普通のチェーン扱いのパン屋らしい。
そんなことをぼんやり考えていたら、トマがカウンターから2人分のドリンクを運んできてくれた。
私は普段持ち歩いている電子辞書を駆使し、下手なりになんとか2人のフランス語会話を成立させようと奮闘した。
トマは、初めて見るカシオ製の日英仏電子辞書を興味津々だ。
不完全ながらもなんとか会話を続けてみると、トマは予想通り陽気で誠実そうな男性だと思われた。
きっかけはナンパだったけど、意外といい出会いだったのかもしれない・・・。
トマの告白
気がつけば、PAULに着いてから1時間が経っていた。
PAULはスポーツウォッチを眺めると、残念そうにこう言った。
「今日は一緒にいてくれてありがとう。
実は僕あの時ジョギング中で、ここに来る予定はなかったんだ。
でも君を見たら、もっと一緒にいたいと思って嘘をついてしまった。
今日はレイコに会えて嬉しかったよ。
本当はもっといたいんだけど、僕はレストランの仕事をしているから、そろそろ行かなければならない。
また会いたいから、君の電話番号教えてくれないかな?」
!!!!!!!!!!
こんなことってあるんだ~!と思いながら、私は「Oui.Bien sur!(ええ、もちろん)」と答えて、鞄の中のプリペイド携帯を探した。
・・・が、こんな日に限って携帯を忘れていた。
最近契約したてで自分の携帯番号を覚えていない私は、代わりにyahooのメールアドレスを紙に書いてトマに渡した。
それだけだと不安なので、私もトマの連絡先を書いたメモを貰うことにした。
帰りはバスでトゥールまで帰れるよう、トマはレ・ザトロントゥの近くのバス停まで送ってくれ、その上丁寧にバスの乗り方までレクチャーしてくれた。
そして、「これ、君にプレゼント」と言って、小さめのH&Mの袋をくれた。
最後は、フランス人特有のほっぺ同士をくっつける挨拶”BISOUS(ビズ)”をして笑顔で別れた。
「なんていい人なの!!」
これから始まる恋の予感に、ワクワクする気持ちを止められなかった。
後悔
帰りのバスの中でトマの書いたメモを見てみると、その字があまりにも汚すぎて、私は自分から連絡するのを断念した。
日本にいる時から知っていたが、フランス人の筆記体は汚すぎる。
彼がメモする時に、もっとしっかり聞いておけば良かったと後悔した。
そして、H&Mの袋の中身を見てみると、シンプルなニット帽が入っていた。
それは、彼が勢いよく脱いでみせたあのニット帽に似ている気がした。
翌朝メールチェックをすると、トマからのメールが届いていた。
はやる気持ちを抑えながら開いてみると、
・・・本文は文字化けして解読不可能だった。
しまった~!!
フランス語はアルファベットの他に”アクサン”っていう独自の記号があって、それをメールで使われると文字化けするんだった・・・。
私は昨日携帯を忘れたことを心底悔やんだが、トマとはご縁がなかったんだと諦めることにした。
「はぁ、そう簡単にフランス人の彼氏を作るのは無理なのかなぁ?」
私の手元には、トマがくれたニット帽だけが残っていた。
「フランス人の彼氏が欲しい」
・・・そう思っていたはずなのに、私は同胞であるジュンイチくんとこの後急接近してしまうのである。