リアリティーとは何かメモ
答えはシンプルで、キャストが本人としてそのまま参加していることにあると僕は考える。多くの場合、キャスト達はInstagramやTwitterといったSNSアカウントを持っており、我々視聴者との距離感は非常に近い。それゆえにリアリティーショーはキャストの実在性によってリアルさが担保されているのである。
「リアリティーショーにおけるリアリティーとは何か」の回答、意外と文句をつけづらかった。その上で、「実在性」というのが実際は「InstagramやTwitterといったSNSアカウント」であることが興味深かった。
ディープフェイクのことを最近考えていて、そもそも「アイコラ」が別人の顔と身体のコラージュであるのに、なぜ顔を「本人」身体を「偽物」とした上で扱うのか、逆であることはないのか(また、アイドルの「身体」に別人の「顔」を付けたものが少ないのはなぜか)という論点はおそらく今まで何度も出ているのだと思う。よくアイドルについて「顔と名前が一致しない」と言われること、まず「顔」と「名前」が先にセットであることにも関係するかもしれない。
つまりは「実在性」というのが、心や感情を持った身体にアイドルの名前が付けられているのではなく、まずアイドルの顔=名前があって、そこに身体や感情が紐づけられている。この2つは相当に違う。
スキャンダルや盗撮といったものの多くが(感情も含めた)身体性の暴露でありながら、それが実際に毀損しようとしているのがそこに紐づいた「名前」であるので、「リアリティー」には対象にアカウントIDがあることを必要とする、というあたりまで考えると、上記のシンプルな「回答」はやはり簡単に文句をつけづらく(言い換えれば、身も蓋もなさすぎるように)感じる。
アイドルへの悪口として頻出するものとして「整形疑惑」「口パク」「ゴーストライター」あたりがあって、どれも真正性みたいな話なのだけど、より詳しく書くなら
1)「本人」の「ありのまま」の顔でなくてはならないのに、改竄されている
2)「本人」の「今」の「ありのまま」の声でなくてはならないのに、どちらかがそうではない
3)「本人」の書いた文章でなくてはならないのに、そうではない
で、3)は他と比べて、上記で言う「紐づけ」に近いように感じた。もうすこし詳しく検討する必要があるけど。
握手会って例えば「この間の舞台よかった」「テレビのあの発言面白かった」「グラビアかわいかった」「ブログでこういうこと書いてたけど……」みたいな話がひとりの当人に集積する場で、つまりは商業もSNSも含めてさまざまなメディアで分割され提供された当人の表象が、握手という形の信頼/認証を通すことでひとつの実在にすべて紐づけられる体験だと考えていて、そしてそれが「握手」であることから、紐づけられるのは「身体」のほうだと思っていたのだけれど、実在性の信頼の中心が名前であるのか身体であるのか、というのは再度考えなければいけないと思った。
元記事にたびたび「中傷ダメ」という言葉が冷笑めいた形で出てくるのだけれど、中傷というのが、例えばアイドルが「恋愛禁止ルールを破っている」とか「裏ではメンバーをいじめている」といった(パーソナリティも含めた)身体性についての真偽定まらぬ情報およびそれらへの苛烈な批判であるときに、「実在性」のありかを「顔=名前」に取ることが、ちょうどアイコラ的に「アイドル的でない」それらの情報とのコラージュ(およびそれがもたらす間接的な毀損)が生成する原因ともなっている。けれどもし「実在性」を身体の側に取るのならば、そのコラージュ/毀損の効果は減ぜられるのではないか(もちろん直接的な心に与える傷は別として)。という話は下のツイートに繋がるかもしれない。
精巧なゲームをプレイしている時でも、見えている路地に入れなかったり、抽斗を開けられなかったりするということはある。NPCの服をすべて剥ぐということもできない。それらは描かれていないし、ビットとして存在しない。二次創作で描いたとしてもそれこそアイコラや妄想の水準でしかない。コンテンツには裸は無い。
けれど「実在性」として人間が登場すると、たとえ決して映されなくても、そこには必ず裸が存在する。これは肉体の話に限らなくて、ある場面でどのような感情が生起したのかといったものも含めて、「顔=名前」の向こうに、果てまで暴きうるものが必ずある。「人間をコンテンツにしてはいけない」という言葉は、コンテンツが持つ安全柵のようなこの「非在」のロジックをそのまま適用する(リアリティの脆弱性を検討しない)ことへの警告でもあるように思えるし、やはりそこで「人間」という際には、実在性を「顔=名前」に取る構造が前提となっているように思う。