今期オオカミくんメモ2
匂いが映像に残らないように、オオカミくんであること(恋愛を禁止されていること)も、ムービーとして記録されたものには残らない。「リアル」では決して成立しえない(こととされている)関係も、映像でピン止めすれば有ったことになるのかもしれない。
先週配信の#10では、メンバーの一人がずっと気持ちを向けている相手を指名してムービーを撮るエピソードが描かれた。その際に彼は相手にひとつの指定をする。「まだ少しでも可能性があったら」ラストシーンでその場にいてほしい、そうでなかったら去っていてほしい。台本の重要な一部を、相手の意思と選択に委ねること。
リアリティショーのいう「リアル」はそのまま「ままならないこと」の意味で、それはつまり自身の意志や努力ではどうすることもできない他者が存在するということを指す。今期オオカミくんにおけるムービー撮影はだから、「リアル」では失恋であっても、自身が監督となるフィルムには想い出を残すことができる、というひとつの救済でもありえた。しかしそこにさらに「リアル」を入れ込む、という展開に今なっている。
リアリティショーにおけるリアル/フィクションについて「オオカミくん」シリーズがどのような論点を作ってきたか、まとめるととりあえずこんな感じになると思う。
1)リアリティショーとは台本のない、一般人のリアルな関係や感情をそのまま映したものである、とする。
2)モデルやアーティストといった人物の経歴/バイオグラフィーに、リアリティショーという(リアルともフィクションともつかない)形式の「経験(挫折/成長)」が挿入される。
3)「オオカミくん」という明白なフィクションの存在を侵入させる。(あるいはそれによって、「リアリティショー」から視聴者自身の「リアル」へ構造が染み出す)
4)「オオカミくん」自身が、そのフィクション性の檻に囚われていることに苦悩するような(「リアル」への脱出を望むような)描写を行う。
5)「シンデレラタイム」や「ムービー撮影」といった、作品内で完結する(「オオカミくん」に影響されない)別レイヤーのフィクションを設置し、入れ子構造を取る。
6)フィクションのはずだった入れ子に、さらにリアリティショーの「リアル」を入れ込む。
レイヤードフィクション/レイヤードリアリティといった単純な言葉ではもはや表しづらい、ひじょうに入り組んだ複雑な構造を行き来するような形となっていることが分かる。前期「月とオオカミちゃん」がそれまでのシーズンの、主にコミュニケーション論に関わる論点の集大成的だったのに対して、今期はリアリティをめぐる構造を主眼としているのかもしれない。
フィルムには嘘(オオカミくん)は映らない/フィルムには本当の気持ちは映らない、という話はそういえば、シーズン6の影絵のシーンですでに提示されていた、ということにいまごろ気が付いた(もちろん「オオカミくんは人物ではなく属性である」という認識をまず必要とする)。