「Blue Lose」Vol.1の感想

1.はじめに

 先日開催された文学フリーマーケット東京にて、かねてより気になっていた早稲田大学負けヒロイン研究会さん(以後、『負け研』)の会誌「Blue Lose」vol.1を購入させて頂いた。本エッセイ(?)はその感想をごく私的にまとめたものであり自家中毒気味の文体が散見されるが、何卒ご容赦頂きたい。

 負け研の存在を知ったきっかけから話すと、昨年の晩夏に遡る。当時「エモい」とは何かみたいなことをぼんやり考えていた私は、誰かのリツイートで流れてきた大阪大学感傷マゾ研究会(以後、阪大マゾ研)なる一見風変わりなサークルに興味を惹かれ、そこから感傷マゾ(スタジオおじや)・青春ヘラ(阪大マゾ研)・負けヒロイン(負け研)という一連の―本当に一連なのかはさておき―サークル群にたどり着いたわけである。

 しかしながら、感傷マゾと青春ヘラは元々の自分の関心領域とも近くまた会誌である程度まとまった量の文章が入手できたのに対し、負け研に関しては座談会やリレー記事など、個々の作品について単発で出力された文章がほとんどだった。そのため負け研の熱量は伝わってくるのだが、負けヒロインとは何か、そして彼らは負けヒロインについて語った先に何を見ているのかが(外野から見ると)宙づりになっている状態であった。これらの疑問への回答が見つかるかもしれないという期待をもって私は「Blue Lose」を購入したわけである。


2.再考:青春ヘラ

 全体を読んでみて、個人的に一番「刺さっ」た、sen氏による『負け、青春ヘラ、感傷マゾ―戯言シリーズから〈物語〉シリーズへ』について主に感想を書いていこうと思う。

 まずsen氏は青春ヘラの通奏低音として「ないこと=アイデンティティ」を取り上げる。元祖(?)の提唱者であるぺシミ氏のnoteから引用させて頂くと、

このように、「○○がないこと」をアイデンティティにするのは本当に危険で、青春ヘラに直結してしまう可能性がある。「インスタをやってない」、「スタバに行ったことがない」といった消極的事実をアイデンティティにしてしまうと、自虐を自己愛に変換することに慣れてしまい、拗らせているなんてレベルじゃなくなってしまう。感傷マゾが切実に存在しない青春を希求する一方、青春ヘラは「最悪、存在しなくてもいいや。それがアイデンティティになるし」といった具合である。異常なまでの自己愛こそが、感傷マゾと区別されるべきポイントではないだろうか。

[1]

の部分である。非常にパンチ力が強い。

 ここまでは自分も理解していたのだが、以降の論点が自分にとっては新鮮だった。sen氏は西尾維新の戯言シリーズを引用して「自意識的セカイ系」という語を定義しており、主人公が世界に影響を与えうるという「自意識の構造」に着目して操作を試みている。これは私の考える「セカイ系」とはかなり異なる[2]が、広義のセカイ系とされる作品群は構造上このような性質を持ちうることは確かに否定できない。そして青春ヘラを可能にする条件として「取り返せないことを体感していない=無限の可能性への開かれ(を錯覚する)」点を指摘し、肥大化した自意識=自意識的セカイ系とパラレルであると論じる。この観点から見ると感傷マゾも整理でき、sen氏は同じ西尾維新作品の物語シリーズと結びつけて論じている。将来への見通しがだんだんとついてきてしまう―現実的になれるもの、やれることの範囲がごく狭いと気づいてしまう―につれて、人生の有限性を自覚し、防衛機制的に生じるのが感傷マゾである。端的に表してくれているのが以下の文である。

簡潔に述べてしまえば、青春ヘラは「無限」を担保に「負け」続けている状態であり、感傷マゾは自身の「有限」性を受け入れた状態である。さらに卑近にいえば、その差異は後悔の深度である。あるいは過去への距離である。

[3]

3.回想と、それから青春ヘラの終わり

 さて、私ははじめ阪大マゾ研からこの分野に興味を持ったのだった。分野内では感傷マゾ・青春ヘラ・虚構エモの3つの概念が存在するらしい。私は今まで感傷マゾのマゾ性=虚構のヒロインからの糾弾を快楽に変換すると説明される回路にあまり共感できなかった。また青春ヘラに関しても論考を読み進めるうちに段々と自信がなくなっていったというのが正直な所である。

 理由のひとつにはコロナ禍により「本当に青春が奪われた」世代、つまり大学新1年生が主な語り手だったことがある。私はコロナ禍の2020―2021年を大学3・4回生として過ごした。もちろん少なからず制限はあったが、せいぜい(と、あえて言わせてもらう)授業がオンラインになる程度であり、高校の文化祭や修学旅行といった「本当に人生で1回しかない」イベントを奪われた当事者たちの言葉に比べるとずいぶん切実さを欠くように思われたのだ。また青春ヘラの発生理由として「青春の全体主義」なる虚構と現実の入り混じった状況でもはや理想の青春像が虚構に規定されるという点が指摘されていたが、私はそこでやり玉に挙げられているTikTokやInstgramなどのSNSはあまりやっておらず、虚構と現実の区別はある程度ついている「つもり」だった。

 これらの理由から私は感傷マゾにも青春ヘラにもなりきれない(虚構エモと呼ぶかは保留する)、たまに綺麗な海と少女の絵が流れてきたら反射的にリツイートしていただけの、「ただのエモ好き」でしかなかったのかな、、という感覚を抱くことになった。この「感傷マゾにも青春ヘラにもなれない」感覚は「青春ヘラ」ver.1の構成にも表れているような気がする。私のみた限り、少なくない寄稿者が私と同じく「自分は果たして感傷マゾや青春ヘラを名乗る資格があるのだろうか」という問いを抱えながら文章を執筆しているように思われる。

 だが、sen氏が改めて整理してくれたように青春ヘラの本質がやはり「青春」というよりも「ヘラ」の部分、記号化した青春などの外的要因というよりも、「ないこと=アイデンティティ」の部分にあるとしたら?

 エモなどという単語が本格的に流行し始める前、私が中学生だったころに遡ろう。私は電車で1時間半、ドアtoドアで2時間近くかけて東京の中高一貫の学校に通っていた。ある程度東京の進学塾でゆるい知り合いが形成されている環境に応答して、私は自ら「家が遠い」というキャラクター付けをして友人形成を図った(実際その戦略で数人の友人を得たのは間違いないのだが)。通学時間が長いから勉強が出来なくてもしょうがない、遅刻してもしょうがない、などなど。大学にはいってからもこの傾向は続いていたが、大学になると事情が異なってくる。大学には少なからず下宿勢が存在する。そして私は―例えばサークルの席などで―下宿勢が同じテーブルにいると正直話しづらいな、という感覚を持っていた。当たり前だ。それまで会話の引き出しを「家が遠い」事に頼っていた私は、「真の外部」から飛び込んできた下宿勢とは非常に相性が悪い。彼らの前では「家が遠い」などは「ないこと=アイデンティティ」にすらなり得ず、端的に不便な場所に住んでいる人間の苦労話でしかなくなってしまうのだ。

 青春に関してもおなじことがいえる。私はいわゆる「キラキラした」サークルには入らず、少しマイナーな運動系サークルに所属した。運動がそこまで好きでもない(サークルを辞めてからやっと気づいたのだが、自分は恐ろしいほど運動に興味を持っていなかった)私が、なぜそのようなサークルを続けたのか。それはひとえに、「いつかこのサークルこそが、自分の青春になる、自分ならこのサークルを青春の場に変えられるかもしれない」と信じていたからに他ならない。まさにsen氏の指摘する「無限の可能性への開かれを錯覚する」回路そのものである。

 では現在の私はどうか。サークルは秋ごろに引退した。特に何もなかった。いや、しなかった。本当に。ただ、終わった。
周りの友人はきちんと学部で卒業して就職していった。研究もやってみたかったので院生という形で結果的に猶予は得たものの、最早これ以上学生の期間を延ばしても可能性がこれ以上広がることは恐らくない。なんなら狭まっていく一方かもしれない。

そう、この文章を記している時点で、この構造に気づいてしまった段階で、明確に私の「青春」は終わりを告げた。

ゆえに、かつて私の中に存在した感情は確かに「青春ヘラ」と呼ばれる―少なくとも私はそう呼ぶ―ものであり、そして同時にたった今をもって私の「青春ヘラ」もまた終わったのだ。

 恐らく、「青春ヘラ」とは、純粋な青春の存在を信じられた最後の時代の感情なのではないか。それは当然個人のレベルでもそうだし、感傷マゾの最新特集にあるように虚構と現実の境界線がどんどん曖昧になっていく未来において今の形では存続し得ないものなのかもしれない。先ほどの私の記述だと「青春ヘラ」は卒業すべきものだと否定的に捉えられるかもしれないが、断じて異なる。「この時代」の、「この私たち」にしか成し得なかった―成し得ない―、それ故になにものにも代えがたい感性なのだと、私は肯定的に捉えたい。

 こんな得体のしれない文章を記している時点で自意識の化け物であることに依然変わりはなく、きわめて公共性のない話だと思う。また感傷マゾのそもそもの出発点が「終わってしまった青春への祈り」であるのだから、私一個人が回り道を経て周回遅れで青春の終わりを認識したというそれだけの話に過ぎないだろう。
 が、あえてこの文章を書いた意味を自己満足以外にも見出すのであれば、一人の人間の「青春ヘラ」が終わった過程を記述したことにあるかもしれない。

 というのも、私の把握する限りだと先行世代の「感傷マゾ」に対してコロナ直撃世代が少し違和感を抱いて「青春ヘラ」を打ち出した、という構図であり、基本的に座談会などでは両者がいかに異なるのかを探る、のような方向性で話が進む。両者間には少しの溝が横たわっており、「青春ヘラ発感傷マゾ」の方がいないように見受けられる。単純な世代論に回収するつもりでは毛頭ないのだが、やはり青春ヘラの「青春」はある程度時期が定まっているもののように今は思われる。ゆえにその瞬間特有の苦々しさがあり、一筋の希望もまた存在するのだろう。もちろん私も「罵りの川」なる概念を超えたわけでは無いから感傷マゾにいくかはかなり疑問が残り、いってみれば勝手に青春ヘラに入って勝手に出ていっただけである。先のことはよく分からない。

それでも、最後に青春ヘラにひとこと。

「この感情に、名前を付けてくれてありがとう――そして、さようなら。」


4.負けヒロインの話

 このままでは負け研の会誌を買って青春ヘラが終わった話になってしまい、負けヒロインの話を全くしないままに終わってしまうので、最後に触れよう。

 先ほど参照していたsen氏の論考は負けヒロインを「負け」性=「ないこと/実現しなかったこと」として取り出す所から出発していた。そのため感傷マゾ―青春ヘラの関係性については非常に明快な論理を提示している一方で、負けヒロインそのものとの関係性については明示されていなかったという印象を受けた。sen氏も冒頭で

 「ここで負けヒロインと感傷マゾ、青春ヘラの罹患者を性急に同一視することはやめておこう。そうではなく、本論では『負け』を『ないこと/実現しなかったこと』としたうえで、『負け』は青春ヘラや感傷マゾに通奏低音として響いていることを指摘するにとどめておく。」

[4]

と断りを入れている。

 「負けヒロインとは何か」については定量的分析や座談会記事などがあり、幼馴染属性との関連など面白そうな論点が多数提示されていた。しかしながら私は巻末リストに列挙されるようないわゆる「ラブコメ」作品の摂取数が根本的に少なく、大変申し訳ないのだけれど大量の固有名詞―負けヒロイン―が流れていく文章を十分な解像度で捉えられなかったため、ここでは詳細な言及は避けたいと思う。

 舞風つむじ氏(以下、つむじ氏)の論考「君が不在で少し辛かった―『萌え』と負けヒロインについての試論」においても同様の感触であった。つむじ氏は論考の目的を

  「我々は『負けヒロイン』に何を見ているのか?『負けヒロイン』の存在、そしてその現れからわかることとは何か?そしてその『負けヒロイン』に我々は何を求めているのか?」

[5]

と設定する。ネタバレになってしまうので論考の詳細の説明は省略するが、細かな疑問点を除いて流れは非常に明快であった。

 残念ながら本論考においても、端的に私のラブコメ摂取経験の不足によりそこで『萌え』と呼称される感情への理解―これはそもそも理解ではなく体得などと呼んだほうがいいのかもしれない―には至らなかった。

「しかしかつてならば選択肢を変えることで救うことができた我々は、もういない。可能世界は並置されないのである。だから介入せずに見ることしかできない我々は、『痛み』を感じる。そしてそれこそが萌えなのである。」

[6]

の、論理が明快であるがゆえに逆説的に「そしてそれこそが」として突如挿入される反転の部分だけが浮き上がってみえてしまった部分はある。

 では「Blue Lose」はいわゆる「負けヒロインオタク」しか楽しめない、読者層のきわめて限定された会誌なのだろうか。私は決してそんなことは無いと思う。

つむじ氏は負けヒロインの性質に

・物語の結果として定性的に「負ける」存在でありつつ、同時に

・魅力的な負けヒロインであったかは、「ある程度」自分の実存の問題に引き付けて解釈される

という両義性を指摘する。そしてその揺らぎについて語り合う事にこそ、連帯の可能性を見出す。

「物語間の空白で起きる、解釈の揺らぎを語ること。実存の奥深くに立ち入らないでも、同じ作品が好きであれば我々は団結できるのだということ。このあまりにもありきたりな事実は、2020年代の現在忘れ去られつつある。だからこそ、『負けヒロイン』を我々は再び取り上げるのである。」

[7]

 ここでもまた「だからこそ」の(私にとっては遠い)反転の論理が挿入されるのだが、重要なのはそこではない。恐らく今後日本の国際的地位や景気、社会情勢が劇的に改善することはもはやないように思われる。社会反映論に飛びつかなくても、いつの時代だって「負け」る人々は存在するし、それどころかその「負け」は個人の属性によって規定されるものではない。たとえ経済的・社会的に成功を収めていたとしても、本人が「負け」を感じるかどうかとはまったく別問題だろう。[8] この状況下において、実存の傷を表明しあう連帯―青春ヘラや感傷マゾよりさらに一般的とされる社会運動を想起してもよいだろう―を否定しないながらも、そのオルタナティブとして「作品」を用いたある種素朴な連帯のありようを提示してみせたところ。

 確かに今記している文章のように実存を開示する作業にはそれなりに重い痛みが伴い、(青春ヘラは恐らく連帯そのものを志向している訳ではないが)これをそのまま連帯に用いるには一定以上の相手への信頼が必要になるような気がする。実際、各々の最大公約数的な属性のみを用いるSNSを通じた連帯は、結局のところ「本当に」多種多様な個々人の事情により分裂し、「理解しあえると思ったのに」という逆説によって新たな分断を産んでいるようにさえ思われる。つむじ氏本人は「負けヒロイン」を志向するが、外野からすれば多分これが必ずしも「負けヒロイン」である必要はなくて(と、あえて言わせてもらう)、それぞれの実存に少しの傷をつけた作品についての語りが、多くの人々にとって半ば閉じた、そして半ば開いたコミュニケーションに「結果的に」繋がる可能性を示唆している。私にとってそれは負けヒロインではないまた別のフィクショナル・キャラクター達であり、各々にとってのそうした存在について語り合う事に―たとえある種の批判は免れ得ないとしても―希望を見出せるという事なのだろう。もちろん課題は山積みなのだが、インターネット発達以後―とりわけSNS発達以後―における、私たちの虚構への向き合い方に対して新たな(いや一周回って素朴なのかもしれないが)視座を与えているように私には思われる。


5.おわりに

 負けヒロインがまだわかっていない私だが、単純にラブコメの食わず嫌いでこれから負けヒロインに目覚める可能性はあるし、よくよく思い返せば印象に残った負けヒロインがぼんやりとみえてくるような気もする(true tears見返したいな、、)。何より100ページ近い会誌を人に書かせている時点で、語らずにはいられない魅力が眠っていることは十分に理解できた。またそもそも「なぜ私は彼女を負けヒロインと思えないのか?」という問い・語りもまた可能性を内包しているのだろう。多分。会誌ではラブコメのライトノベル、アニメや攻略可能なヒロインが必ず複数登場するノベルゲームが主戦場だったように思われるが、それ以外の領域での議論も興味深い。

まとめると、色々考えるきっかけになったので一言でいえば

「買ってよかった」

に尽きます。素敵な会誌をありがとうございました。


以上、「Blue Lose」Vol.1を読んでみた感想でした。

最後までお読みいただきありがとうございます。


脚注:
[1] 「ぼくらに感傷マゾが必要な理由」、ぺシミ

[2] 注釈を入れておくと、私はセカイ系には上の説明には収まらない普遍的・肯定的なテーマが眠っていると信じているが、同時にセカイ系とは最早個々の物語の構造ではなく、受容する側の感性の問題であるとも思っている。ゆえに「セカイ系」についての対話はまず各々の「セカイ系」に対する態度を確認しあうことでしか始まらず、それだけで膨大な時間と文字数を費やすため、ここではとりあえずsen氏の解釈をそのまま受け入れる。

[3] 「負け、青春ヘラ、感傷マゾ―戯言シリーズから〈物語〉シリーズへ」、sen
「Blue Lose」Vol.1 42ページ

[4] 同上、39ページ

[5] 「君が不在で少し辛かった―『萌え』と負けヒロインについての試論―」、舞風つむじ
「Blue Lose」Vol.1 71ページ

[6] 同上、77ページ

[7] 同上、80ページ

[8] 先ほどの記述と矛盾するような気がしたので補足しておく。私の現段階の理解としては、sen氏の論考で強烈に実感してしまったように、「個人」にとっての青春ヘラはいつか終わる。感傷マゾVol.7「仮想感傷と未来特集」のタイトルにあるように、「時代」にとっての青春ヘラもまたいつか変容していく。けれども、青春ヘラなどや感傷マゾーあるいはこの社会全体かもしれない―に通奏低音として流れる「負け」の感性そのものが消失するわけでは無い、、というニュアンスである。

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