後 : 和歌山のうた

2024年11月4日(月) 文化の日、振替休日。

新祝園駅から近鉄に乗り、まずは西大寺で乗り換える。小学校高学年くらいの頃、おばあちゃんと改札付近にある電車の出発が見えるカフェに来たことがあった。なぜおばあちゃんとふたりだったのかは思い出せないが、お洒落なメニュー表のソフトドリンクの中からアップルタイザーを頼んだことだけは覚えている。瓶で出てきたジュースにきっと緊張していたただろう。この歳になってもサイダーとタイザーの違いは分からない。
やがて区間急行は難波に到着する。改札を出ると人が多く、南海の駅までの所要時間が予測できなくて少し足を早める。難波に来るといつも不安になる。南海なんば駅の長いエスカレーターは立っているべきなのか歩くべきなのか、この日も悩んでしまった。

そこから約1時間、南海特急に揺られる。イヤホンの中はライブハウスで待つAge Factoryをループしていた。関空や泉大津に行く際に目に留まる羽衣や鳳、春木といった駅には停まらないようだ。車内に表示されるみさき公園の文字はもう南海線でしか目にすることがない。小学生の頃に一度だけ連れて行ってもらったが、何回も行った他の遊園地や遠い観光地と同じくらい楽しかった記憶が強く残っている。消防車を模した乗り物に乗って、ホースから出る水で炎の的を倒すゲームをとても気に入っていた。帰り際に少し雨が降り出す中、最後にそのアトラクションで遊んでから帰った。大学生の頃、みさき公園が閉園することを直前まで知らず、慌てて行こうにも都合が合わず行くことができなかった。最終日に当時付き合っていた人が友達と行っていた。閉園ということで無料だったか格安だったかでエミューのぬいぐるみを持って帰っていた。昔ながらの遊園地のあたたかい感覚がとても好きだ。令和を生きる今、昭和・平成のレトロなものが流行りなのかもしれないが、僕は自分の知らない時代よりも幼い頃に体感していた朧気な懐かしさに惹かれるのだと思う。エキスポランドもあやめ池公園もなくなってしまったが、そこでウルトラマンのポーズで写真に映る僕は今でもアルバムに残っている。

和歌山市駅に降り立つと、辺りはもう暗くなっていた。和歌山には今年の春に来たが、すぐにバスに乗って海辺へ向かったのでこの周辺や街のことは何も知らない。その前は大学に入学してすぐに小学校の頃からの友達とKEYTALKのライブのために来たが、和歌山SHELTERだったので手前の駅で降りていた。近くにあるイオンのフードコートでペッパーランチを食べた。京都で下宿を始めてすぐだったので一緒に地元まで帰ることができず、そのまま僕は軽音サークルの友達が集まる家に行った。どの友達とも今は連絡を取っていない。KEYTALKからメンバーが脱退するときもあいつにLINEを送れなかった。小学校の頃から勉強ができてサッカーがうまかった。天然パーマで嫌味を堂々と言うやつだった。サイゼリヤでミラノ風ドリアを2つ頼むようなやつだった。女の子からはもてなかった。小学校ではほとんど同じクラスにならなかったがずっと一緒のサッカークラブだった。そのまま中学校ではサッカー部に入った。紅白戦で僕は実力でBチームだったが、あいつはAチームのふざけたやつらと反りが合わないためBチームの方にいた。ふたりとも燃えていてAチームを負かしたときが一番サッカーを楽しんでいた。その影響で僕も1年生の中ではAチームになれた時期もあった。塾も同じだった。小学校の頃から入塾していたあいつは一番上のクラスにいた。僕は勉強して下のクラスから上がって同じクラスになった。一緒に生徒会に入った。選挙演説はお互いにいい感じだった。生徒会の先輩が怖かった。僕が不登校になった頃、あいつはサッカー部のキャプテンで生徒会長になっていた。それでもずっと家にいる僕を塾の自習室に連れ出してくれた。自分の名前を掲げて〇〇塾だと言って勉強を教えてくれた。ノートの端っこにKEYTALKのセットリストを書いて遊んだ。休みの日(僕は年中休み)には梅田のタワレコまで行った。友達と1時間電車に乗ってCDを買いに行くことすら僕にとっては大冒険だった。あいつはベース、僕はギターを始めた。あいつは地元でトップクラスの高校、僕は冗談みたいな高校に進学した。あいつは軽音部に入り、僕は何もしなかった。高校に入ってもたまに誘ってくれて会っていた。バンドの話を聞いていると羨ましくて仕方がなかった。それでも何も行動しなかった。僕は普通の大学に進学し、あいつは浪人した。僕が京都の生活に慣れてきた頃、京大生として数駅隣の街に引っ越してきた。一度だけ会った。僕がバイトしていたパン屋があるショッピングモールに行き、多分フードコートで丸亀製麺を食べた。マクドよりうどんを選ぶようなやつだった気がする。あいつの家に行くとKEYTALKのメンバーが使っているモデルのベースがあった。一緒にMステを見てから帰った。傘を忘れた。傘を取りに来るように言われたが日々の慌ただしさを言い訳にしてなぜか返事ができなかった。そこから連絡は誕生日だけになり、やがて途絶え、そして会うこともなくなった。

そんなことを思い出しながら和歌山の街を歩いていた。街頭が少なく、周りにはライブに向かう人しかいなかった。シャッターの閉まった店を抜けて横断歩道を渡って真っ直ぐに道を歩く。誰も干渉しない雰囲気が心地よかった。ずんずんと歩き続けた。かわいい看板を見つけた。すれ違う人はいなかった。周りの人は皆、同じロゴの服を着るか同じ音楽を聴いて、同じ方角へ向かっていた。
和歌山CLUB GATEに着くともう開場直前だった。道路に並んで順番を待った。着ていたジャージはカバンに押し込んだ。後で物販のタオルを買おうと思った。ドリンク引換も後にしようと思った。チケット引換の際に目当てのバンドを聞かれた。どっちも目当てだが、数が少なそうだったのでyonigeと答えた。早くライブを見たかった。少しでも前に行きたかった。

yonigeは高校生の頃に好きになって列伝ツアーに行った。その日に買ったTシャツは未だに着ている。yonigeが事務所を辞めるくらいに僕もロックバンドから離れていった。それでも巡り巡って今年の春、僕にとって大切な曲であるさよならプリズナーを僕にとって大切な日にコピーした。9月には福井でのフェスで7年ぶりにライブを見ることができた。それを経ての今日だった。セットリストは自分が離れていた頃の曲が多く、再度心を掴まれるきっかけになった新アルバムの曲もあまりやらなかった。それでもよかった。ライブハウスでyonigeを見れることが本当に嬉しかった。
Age Factoryのライブが始まれば圧縮で前に行けるだろうと踏んでいた。その通りだった。2曲目で最前から2列目に行き、ダイバーに蹴られて唇を切った。本当に良いライブだった。Age Factoryのことはyonigeを好きになった頃から知っていたが、今この年にライブに行くほど好きになるなんて、ロックバンドは予測できなくて楽しい。京都大作戦では聴けなかった曲やこの日までに好きになった曲をたくさん聴くことができた。
ライブ中、今回のツアーに掲げている"Songs"の曲たちを聴いていると、ふとした瞬間になんていいアルバムなんだろうという実感があった。僕にとってSongsは夏のアルバムで、一曲一曲の夏の情景が今年過ごした夏とリンクする感覚があった。何年か経ってもきっとSongsが今年の夏を思い起こしてくれるだろう。そんな確信があった。それでもライブを締め括った曲は僕が始めてAge Factoryを聴いた曲だった。

ライブが終わるとドリンクチケットをZIMAの瓶と引き換え、タオルではなくSongsを買って駅に向かった。
行き道では通らなかった細い道を抜けて小さな橋を渡ったり、同じ道を通ってかわいい看板の写真を撮った。
毎日聴き続けていても一瞬で終わってしまうライブの儚さのように、和歌山の街に胸を焦がしていた。あの頃の思い出も会わなくなった友達も、この街が包み込んでくれる気がした。また訪れたい。今度は何を思って、何を感じるのだろうか。春を告げるのか、夏の終わりか。秋の訪れか、冬を待っているのか。きっと同じ空気で、温度で、匂いで、違う自分を迎えてくれるだろう。Songsの曲たちがひとつひとつ小さな星となって和歌山の街を照らしていた。

いいなと思ったら応援しよう!