名前のない物語〜この恋は永遠だと信じていた〜
『良いか、娘たちよ。私たちは至高の存在である。我がゴシック家の名を汚すことのないよう、淑女として生きなさい。そして、素敵な殿方に気に入ってもらえるよう、先生の話はよく聞くんですよ』
世間知らずだったジャサナは、両親の言うことが常に正しいと信じていた。
至高の存在として生まれたからには、日々女性としての美と教養を身につけ、国の歴史から社交ダンス、お茶の淹れ方...ありとあらゆる花嫁修行をしてきた。
どういった殿方に見染められるのが良いか、先見の明を養う為にもチェスを通して、何手先をも見通せる、行動できる人間であれ、とチェスの名手と何時間も睨めっこをし合った。
ゴシック家12代目である父、リキシ・ゴシックは切れ物で、人の心を読む術も教えてくれた。人相を観察し、相手がどう動くかを考えて動く。お陰で一人で闇市に行っても、ナメられることはない。
両親の教えを全て実行できる程良い娘として成長したと思う。
だけど...
どうしても男性と結婚する自分がイメージ出来なかった。
彼女が初めて心をときめかせたのは、12歳の時だったと思う。
そして自分の性を知ったのもこの時だった。
それは10年前、しんしんと雪が降るある夜のこと。
「可愛い娘たち、今日もよく頑張りましたね。さぁ、温かいミルクを召し上がれ」
この日は確か、温冷浴をした日だ。
春と秋にティータイムを楽しむテラスがあり、冬は月見風呂に、または修行をする場所にもなる。
ジャサナの父が長年信頼を置いている医師は、医術をすぐには施さない。人間が元々持つ免疫力を高めることが大切だと言う。
免疫を高めるには冷たい水と温かいお湯を交互にかぶるのが良いと医師の持論があるため、私たちは凍てつく寒さの中、水の中に入るのだ。もちろん裸だ。魔法で寒さを感じさせなくするようには出来るが、その魔法によって体が危険か判断出来ず、凍死した例もあると脅され、ジャサナと姉妹は魔法で体を暖めるのは諦めた。
「そうそう娘たち。見聞を広げる為に、明日は逞しい女性達とお茶会がありますの。女性でありながら兵士として鍛え、国を守っていらっしゃる方達よ。
よく話を聞いて、使えそうな話や生き方を存分に学びましょうね」
母親は三人の娘たちに明日の日程と、よく眠るように言いつけ、部屋を後にした。
最初に口を開いたのは妹のマリナだった。
「きっと、男みたいな人たちよ!女としての価値がないから、男の世界に入ったんだわ!」
マリナは何に対しても小馬鹿にした言い方をする。次に口を開いたのは、姉のスズラン。
「そのようなことを言うものではありませんわ、マリナ。どんな人からも学べることはあると、お父様は仰っていたじゃない。きっと彼女達を見て学べるわ。どんな人柄が紳士に好まれないのか...」
スズランは表向きの顔が良い、裏では何をしているか分からないタイプだ。
その分マリナは、人前でも家族の前でも同じような態度を取るので、彼女の方が良い性格だと言う者もいるだろう。
「疲れたから、私は寝るよ」
「そうね。明日の為にも、休みましょう」
「おやすみなさい!」
自由気ままな性格のジャサナは、二人の言い合いに入らない。参加すれば、面倒になることは何年か前に経験し、理解した。
好奇心に満ちたジャサナは、明日のお茶会は楽しみだった。
屈強な男よりも強い女性たちとは、どんなに素晴らしい方なのだろう!と興奮してしまい、瞼は閉じていても、空想が広がり中々寝付けず、ようやく眠れたのは夜中3時を過ぎてからだった。
翌朝、朝食前の部屋の掃除はどうしても気乗りしなかった。気付くと、欠伸が出て、瞼は重くなっていく。
「あら、ジャサナお嬢様!朝から眠たそうな顔をして!ご両親の前では気を付けて下さいね。お客さまのお出迎えにそぐわない顔をされると、今日のお茶会も参加出来ませんよ!」
「そんなに眠たそうな顔してる?」
「えぇ!今にも眠ってしまいそうに見えます。今日のお菓子はスモアですのに!」
ゴシック家のメイドとして付き合いの長い、ヤライ・トンプスは恰幅が良く面倒見の良い女性だ。
ヤライの子供たちは既に親の手を離れて、他国で教鞭を取っていたり、見習いメイドとして他の貴族の元で修行をしている。
ヤライは夫と早い段階で死別し、自分の子供ももう手がかからないので、ジャサナ達を自分の孫のように可愛がっていた。
女性らしく行動しない、ヤライのありのままで日々を過ごしている姿が、ジャサナにとっては輝いて見えた。
常に愛らしく微笑み、美しく着飾り、紳士に見染められるよう努力を重ねるのが女性だと教えられて来たが、母親や家庭教師の教えとは違う女性に対して憧れが芽生えていた。
「ヤライのスモア、久しぶり!食べたい!」
「今ビスケット用の生地を練り込んでいる所です。お茶会が終わってからのオヤツですから、頑張ってお行儀良くしてくださいね!」
「頑張る!」
12歳の頃のジャサナはまだお転婆の残る可憐な少女だった。
母親からも、もっと女性らしく、品良く、と言われ努力はしているも、紳士に好かれる女性を演じるのはどうも長く続かなかった。
姉妹二人は出来るのに、どうして私は出来ないのだろう...そう悩んでいる時も、ヤライは慰めてくれた。女性らしくなくても良い、とは長年仕えているメイドなので口にはしないが、それでもヤライの想いは伝わっていただろう。
ありのままの自分で良いと。
お茶会はゴシック家自慢の庭園で開催された。この日は天候にも恵まれ、青く澄み渡った美しい空の中、雪を輝かせる太陽。
冬でも花々を楽しめるように、と月日をかけて出来上がった温室庭園では、花々の良い香りが広がっていた。
そして暖かい空気が逃げないように設られた建物と少しの魔法で管理され、魔力の少ない者でも花を世話する能力があれば、管理者として勤められる場所だ。
この庭園の出来栄えは素晴らしく、出来た当初は多くの貴族や国賓の者たちが訪れたと言う。
だが12代目当主が20歳前後の頃の話の為、ジャサナ達にとっては画期的で素晴らしいものだという実感はない。使うといえば、幼少の子らとかくれんぼをする時くらいだろう。
ジャサナはかくれんぼをする要領で、花々に囲まれた一角で休憩しようと、お茶会の輪の中から逃げて来た。
「あ゛」
「あ...」
ジャサナのお気に入りの隠れ場所には既に先客がいた。少年のように髪を短く切り揃えた...女性にも男性にも見える中性的な面だけど...薄緑色の瞳を持った美しい人がいた。
「ゴシック家のお嬢様もサボるんですね」
少しの沈黙の後、先客はにかっと意地悪そうに笑ってみせた。その顔を見た瞬間、ジャサナの心臓はトクンッと跳ねた、ような気がした。
「どうも僕は、お茶会やらなんやの催しが苦手でね。クッキー、食べるかい?」
「...は、い...」
先客はお茶会用に出されたお菓子をいくつもポケットに入れていた。ジャサナは差し出されたクッキーを言われるがままに受け取るも、どうも声がうまく出ないし、動きも鈍い。
緊張するといつものように動けない、だからこそ飽きるほど繰り返し練習をするのです、と母親の言葉が突然思い出された。
こう教えられたのは随分前だったはずだが、とても鮮明に脳裏に思い出され、ジャサナは本能で理解した。今、自分は緊張しているのだ、と。
「どうした、お嬢さん。おしゃべりは苦手かい?」
もらったクッキーを食べるわけでもなく、ただ目の前の美しい人を見る。
色素の薄い金色に光るショートヘア、きりっとした眉に薄い唇。年は16、7歳くらいだろうか。
視界に映る存在は本の読み聞かせの中にあった一国の姫と王子の恋物語に出てくる王子のイメージにピッタリだった。
「僕みたいな人間は初めてかい?」
「は...い...」
ぽかんと開いた口が塞がらないジャサナ。こんなに見目麗しい人間を見たのは確かに初めてだった。こんなにも美しい人がこの世に存在するのか、それとも夢の世界に入り込んでしまったのか、これは空想の世界で今私は寝ているのかもしれない...
ジャサナの脳内は疑問符で埋め尽くされ、会話をすることもままならなかった。
「ゴシック家は妖精との関わりもあったと思うけど...まぁいいか。ほら」
「きゃっ」
いきなり手を掴まれ、ジャサナの手は美しい人の左胸にあてがわれた。
小ぶりだけど柔らかな胸、その下で規則正しく動く心臓。手に伝わる心臓の鼓動を感じたジャサナはぼうっとした意識から少しずつ目覚めていった。
「僕はちゃんと存在する。妖精の血は入っているけど、ちゃんと生きてるよ」
心臓の音につられてジャサナの呼吸が整えられ、リズムが重なっていく。
目を逸らすことが出来ない。二人の呼吸は静かに重なり、見つめ合い、別々の存在から一つになる、溶け込んでいくようなそんな感覚に囚われた。
「名前、は...?」
「僕はフラウ。君は?」
「ジャサナ...」
喋り方を忘れたかに思えたジャサナだったが、名前を聞けた。何も考えず、純粋に目の前にいる美しい人の名前を知りたかった。
「フラウ...」
教えてもらった名前を呼んだ瞬間、心の奥底から何かが叫んだ。
ようやく出会えた。
ずっと探していた。
あなたと出会える日を何百年もの間心待ちにしていた!
体中が叫ぶ。
ジャサナに起こったことはフラウも感じているようで、お互いに顔を見合わせて驚く。
そして本能のままに、唇を近づけた。