わたしのためだけの話

さて、どこから話したものか。
まず前提を箇条書きにすることにする。

・8つ上の姉がいる
・上京するにあたり姉との2人暮らしをすることになり、その一夜目で姉が今の旦那を家に連れ込んでいたことが発覚。潔癖なわたしはそれが許せなかったが、姉はそれが理解できず衝突
・以上のことからわたしは姉を嫌っている
・姉が結婚するにあたり、わたしとのいざこざは関係なく家族は少々反対していた
・子供ができたこともあり、反対していられなくなった家族の中でわたしだけはずっと難色を示していた
・姉が反ワクチンになる
・姉が反ワクチン布教活動を始める

時系列的にもこんな感じのことが前提としてあった。そこを踏まえて、わたしの主観でことを綴る。そのため、個人の心に準じた話になると思う。わたしを知らないひとが読む場合は、そこはわきまえて読んでほしい。
そして先に明言しておく。わたしの肉声でこの長年の一件を一度も聞いてないひとからの「ご意見・ご指摘」は受け付けていない。アドバイスもだ。

事の起こりは4月末だった。GWに向けて兄への伝言を両親にお願いした。いつものことだったが、両親から兄が口をきいてくれないので自分で伝えてほしいとの返答があった。
兄と話しをしたところ、もともと兄はわたしより先に普通に姉が嫌いだったが、今回両親が勝手に実家とは別の持ち家に姉一家を呼んだことで、ことを勝手に進める両親にも腹が立ってしまいどうにも気持ちの整理がつけられないのだという。ストレスで夜な夜な気持ち悪くなり、目が覚める。そうして疲弊しているという。

兄が姉をきらいなのは、普通の兄弟的な距離だと認識している。自分の生活に影響がなければ興味がない、というような感じ。おおむねわたしも同じだが、わたしはそこへきて家族と姉を会わせたくない、という気持ちがある分わたしの方が嫌いと言えるだろう。

「実家とは別の持ち家」というのは、実家とは別にひとに貸している一軒家があって、ちょうど空きが出たので田舎暮らしをしたい姉に声をかけてあげた、というのが両親の言い分だ。実際には、姉の子供を学校に通わせたい父が、田舎でなら通わせてあげるんじゃないか、というようなおせっかいを焼いているようだ。

実家に呼んだわけではないのだから、と思う者もあるだろう。しかし、実家に近いところへ越してきては、隙あらば実家に顔を出すことは想像に難くない。まずもってわたしと兄はそこが不快だ。来るなとは言っていない。年に数回に収めてくれ。

わたしは都内に一人暮らしだから関係ないだろうと思う者もあるだろう。前述の通り、両親に姉を会わせたくないという気持ちがあり、より会いやすい環境を許すことはしたくないのだ。

あなたのことが嫌いなので、来ないでほしい。現在の住まいの更新料などがあるならこちらで負担するとの連絡を姉に入れて、数回ラインをやり取りした後電話がなった。
「縁が切れたら幸せなのか?」
「どうしてほしいのよ」
「あんたのいないときに実家に行くののなにが嫌なの?」
「わたしの実家でもあるのよ」
仰る通りだ。「嫉妬?」と訊かれた。意味が分からな過ぎて、嫉妬ってなんだっけとすら思った。わたしが一体、誰にどう嫉妬する状況があるんだろう。

わたしが姉を両親に会わせたくないのは、両親に反ワクチン的思想を強引にねじ込んでほしくないからだ。姉が自分の思想を両親に紹介するのはいい。自由だ。両親がそれを受け入れるのも自由だ。そもそもわたしは反反ワクチンではない。
反ワクチン的思想を、表明・紹介するだけでは済まないことが不快だし恐ろしいのだ。両親でさえ、娘はどうしてしまったのかと困惑している。

マスクをしたら健康に悪いだとか、コロナなんて存在しないだとかワクチンを打ったら死ぬだとか、そういったことを感情的に話し、「はやく真実に気づいてほしい、早く目覚めてほしい」と強要する。それが同じ思想ではない人たちにとって苦痛だと気付けない状態にあることを、わたしたちは宗教的であると感じ取っている。
ましてやわかってあげたいと思う両親に対してそれをするのは、老々介護で疲れ切ってる両親に酷だとは思わんか。

コロナという世界情勢以降、この世界のすべてを疑い見直した結果、姉はこの国の医療、政治、教育すべてが国の洗脳だと認識し始めていて、自分の子供を「学校」という箱に入れて教育したくないと思っているらしい。

この辺は父や従姉妹から聞いた話で実際のところ姉がどのように考えているかの詳細は知らない。デモに参加したりしていたし、ワクチンを打つなと触れ回っているところから察することが出来るのは、今の国の方向性に反対であるという点と、憤りがあるというところくらいだろう。

聞いてる限りでは、学校で教わることは国の息のかかった洗脳だとでも言わんばかりではあるものの、国の教育ってそんなもんだろうと思う。学校で教わったことを鵜呑みするかどうかは性格や教養にあるだろう。それは家で養えるのでは?ちゃんと育てば学校にいても自分で自分の考えを持てる。その基盤は学校に行っているかどうかが原因ではないのでは?そもそも嫌なら別の国に行けばいいのだ。

まあ子供の教育問題は別にいい。そこの思想は自由だ。子供の教育も姉の子供だから自由だ。子供は親を選べない。姉の子供が学校というコミュニティを知っていてそのうえで行きたくないと申し出ているのか、そもそも姉は子供に学校という選択肢すら見せていないのかそこは知らないし、わたしには関係ないことだ。

そこはおいておいて、少なくとも姉は「子供を学校に通わせない」という選択について、父を納得させていない。させる必要があるのか?といえば、今回はあるとわたしは思う。なぜならそのほかの子育てに対して、わたしの両親に協力を求めたり、助言を求めたことがあるからだ。そこへきて学校に行かせないという選択には「関係ないんだから口を出さないで」では筋が通らないと思う。

協力も助言も求めて結構。それは素晴らしい家族のかたちだろう。でも都合よく使って、違う意見の時には黙ってろは違うでしょう、というのがわたしの意見だ。

別にいいんだ。反ワクチンだって。お互いのとったリスクをお互いが認め合えばいいだけだ。だけど、姉はそうじゃない。言葉の端々で反ワクチンを否定する人を「まだ目覚めてないひと」といい見下している。
「あんたはこの後東京がどうなるか知ってる?」と姉は言う。知らん。知らんけど、東京がヤバイことになるのに、あなたは実家近くに引っ越すことで逃げられているのか?隣県だぞ?あんなに遠いロシアとウクライナの戦争ですら日本に影響あるのに、首都東京がどうにかなって電車でたった2時間の隣県で逃げ切れているのか?

姉は電話で家族を愛していると言っていた。愛しているから救ってあげたいのだと。まるっきり宗教家の発言じゃねえか。ワクチンを打たないことはひとつの選択であって宗教ではない。もちろん思想でもない。でもその選択を取った人たちが妄信することで、現状宗教染みた布教が各地で行われている。

家族を救うとは?愚かにもわたしには目の前の問題で忙しい。母方の祖父母の最期を両親が後悔しないように選択できるように、それでいて今のこの瞬間を一瞬でも気楽に生きられるように。実家のおじいになるべく顔を見せてあげられるように。おかゆしか食べなくなってきたおじいに、なんとか食欲を戻せるように。

母の頭は自分の両親の介護でいっぱいいっぱいだし、父はそれを支えるのでいっぱいいっぱい。だからもう、正直ワクチンとかそういうこと言っていられない。
救ってくれるというのならまず、ワクチンとかを落ち着いて考えられるような精神状態になるように協力してからにしてほしい。

姉も兄も母も、今回のことでは意見が違うことでなにかを選んでなにかを失う。正反対のことがあって、どちらも譲歩しないとき、その間にとどまれないときには片方を切り捨てる覚悟で選択する必要がある。苦しみがあるだろう。みんなが同じ価値観考え方じゃないから。分かり合えないなら距離をとる。そんな簡単なことが家族だという一点で気持ちの整理がつかない。

それが苦しいのは、たぶん、当たり前にただ純粋に愛してもらったからなんだろうと思う。そしてたぶん、わたしも当たり前にちゃんと家族を愛せている。お互いにちゃんと気持ちがあるから苦しいのだ。
幻滅しても何度も縁を切ろうと思っても、それでもそうしないで踏ん張るのはそういうことなんだろうと思う。

姉よ。私があなたを嫌いなのは、母とか父とか家族とか旦那とか関係ないんだ。ひとの考えを見下して、強引に自分の思う正しさに従えようとしているその様が嫌いなんだ。強要してないと口では言うけど、傍から見てるひとがほとんど強要と受け取っている。そんなつもりないは通じない。
相手と話すときには、それが伝えたい相手なら伝わるように受け取ってもらえるように努力する必要がある。そして結果がすべてだ。

姉よ。あなたの、相手がどう思っていようが、自分が正しいと納得しないと許容しないところが嫌いだ。納得させないで自分の正しさに強引に進めるから、いつまでも相手が飲み込めないままなんだ。それが禍根を残している。だからこうして、いざ反ワクチンというポジションに身を置いたとき、話を聞いてもらえないんだ。

わたしが気を付けていること、というか、自戒がある。
ひとつは、「今」はいつも自分で選んだ結果であること。
ふたつめは、相手にわかるように言葉をあきらめずに尽くしていないのに「何も知らないくせに」と相手にぶつけないこと。
みっつめは、わかりあいたい相手に「もういい」と言い投げないこと。

この世はいつも自業自得なんだと思っている。わたしの声が届かないのは、これまでのわたしの行いで信用を得られてないから。だからなるべく、いつか「あなたが言うなら…」とわたしの存在そのもので信頼してもらいたい瞬間のために、どうでもよくない人とは納得のいくように話に付き合いたいし、納得いくまで付き合ってもらうように心がけている。

もちろんこれはわたしが人に対してこうありたい、自分に対してこうありたいというだけで、他者に強要するべきことではない。でも、もういい、とか何も知らないくせにと投げられたわたしは姉を信頼できない。わたしが相手をあきらめたとき、どうでもいいと思ったときに投げる言葉だからだ。

今回は兄とわたしで両親を黙らせることができた。わたしが両親やおじいから姉一家との賑やかな生活という選択肢を潰したことになる。もっと言えば、姉から両親を、姉の子供から祖父母を遠ざけたことになる。ある程度の責任は感じている。

だけどこの結果に納得がいかないなら、姉も両親も反論を叩きつけて代案を出してよかったんだ。譲歩してもいいと思えるものなら飲み込むつもりはいつでもある。

例えば引っ越しても決めた日にしか実家に居座らない、1年だけの期間限定とか言うなら兄はどうだかわからんがわたしは頷いただろう。

でもしなかった。両親に姉が持ち家にどうしても住んでてほしいか?住まないことになっても構わないか?と確認したし、姉にも連絡をとって実家の持ち家でしかできないことはなにか?などお互いの言い分を話した。姉からはもういい、と答えをもらった。あとになってわたしのせいだと言うのは少し無責任が過ぎるだろう。

姉との会話のひとつで、まじか〜と思ったものがある。
姉からわたしを守ってくれない両親に協力を仰がれると頑張りたく無くなる、わたしのお願いはきいてくれないのにわたしは協力してあげなくちゃいけないの?と思ってしまうのが嫌だと話したところ、「守ってくれないっていつまで甘えてんのよ」「してあげてると思ってるからでしょ」「そんなに恩に着せるなら断ればよかったじゃない」「勝手にしたんでしょ」と言われたのだが、そんなに言われるほどわたしは大人として破綻した感情だろうか?

わたしが言っているのは今自分にとってマイナスなことをしている人に、協力的な気持ちになれないという話であって、過去あんなにいろいろしてあげたのにお願いきいてくれないの?という意味ではない。

これまではどうでもいい。今、わたしを不快にしておいてその上で頼み事をしてくるとき、いつも通りにこにこなんでも二つ返事ができないのが心苦しい、そしてそのわたしが二つ返事できないほど不快なことが唯一姉だって言っているのだ。

勝手にやったことはたしかにそう。きっと助けになる、わたしが動くのが一番いい、合理的で早い解決になると思ったわたしが勝手にやったこと。それにはなにもいらない。

でも頼まれたことを気分じゃないからと断ることはできない。悲しむことがわかってて、他に頼める人がいなくて途方に暮れるのがわかってて、それでも不快だからなんていう感情だけでは断れない。自分が我慢してでも助けてあげたいよ。無感動で人間嫌いなわたしなりに、ちゃんと家族として大切に対峙してるんだよ。

頼まれたことを断らずに請け負ったことは「勝手にしたこと」でそれにわたしの気持ちを汲んで欲しいという対価を望むのがそんなに甘えだろうか。

もうわからん。甘えてて恩着せがましいというならそうなんだろうよ。でもじゃあきくけど、あんたは無償で家族になにをしてくれた?ねえ、両親の助けになってくれた?

その恩着せがましくて甘えたな娘にそれでも協力を仰ぐのは、それでも手が必要だからでしょ。それに応えてきたことを勝手と言われればもうそれまでだ。

わかりあえない。
わかりあえないから、そちらで幸せになってくれ。

わたしは姉を家族から遠ざけた責任をしっかり負って、向き合っていくから。わたしにとっては、プライベートゾーンに他人がいないことでストレスが減るんだ。わたしはわたしのスペースのために戦っただけ。

たまたま兄も今回はストレスが同じだっただけ。

わたしはわたしを守ってあげただけ。それだけの話なんだ。