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仮面と懺悔【中編】

その時、私の中の時間が止まりました。妖艶という言葉がこの世で最もふさわしい人と出逢ってしまったと、恐ろしささえ覚えたのです。仮面は最早彼の身体の一部で、きっとそれが無かったら私はここまで惹き込まれなかった筈です。そこから覗く色素の薄い瞳には、不思議と恐怖心を抱かないのです。それどころか、その瞳から視線を逸らすことが出来ない私が居ました。
久々の来客だったのか、彼は嬉々として私を迎え入れました。旅先で買ったと言う異国の珈琲を、態々豆を挽いて淹れて下さいました。珈琲には疎い私ですが、彼と同じで上品ながらも官能的な香りを感じました。なんて興味深い人なんだろう。この店に入った時に強烈に感じた、あの好奇心を彼自身に強く覚えました。

そして彼は私と共に珈琲を口にしながら、淡々と自身について語り始めました。特に愛用の仮面について話している最中は、興奮を抑えきれずに少し怖い目をしていたのですが、大きく見開いた目に私の心臓は高鳴りました。人生で初めて、生きた人間の眼をしっかりと見た感動と、一挙一動、目の動きさえも、まるで舞踊の様で美しい彼によって、今迄知らなかった自分を引き出されていくのです。
籐椅子を並べて向かい合って談笑に華を咲かせました。内向的で話し下手な私でしたが、彼の会話のリズムに気づかぬまま乗せられていました。まるで言葉でワルツを踊っている様な、まるで熱く愛し合う恋人の会話でした。
その時、白く長い指が私の鼻筋を撫でたのです。じっと瞳を見つめられて息が止まり、指は鼻頭を通って唇に辿り着くと、ゆっくり何度も上唇の上を往復しました。
「貴女は美しい。貴女ほど仮面が似合う女性はいない」
耳元で囁かれた時には、私は全身が蕩けて最早物体として形を成していないのではないかと思いました。彼の眼差しは私を掴んで離さず、熱い抱擁の如く濃厚に私の全てを包んでしまうのです。但し、そこに嫌悪感や今迄苦しんでいた恐怖心は存在せず官能的な心地良さが介在するのみでした。そしてとうとう私は悪魔に唇を奪われました。夫がいる身でありながら、私は仮面の魔性にほだされてしまったのです。そのままなし崩しで私を彼に捧げたのです。
店の最奥にある小部屋で寝起きしていると言っていました。自ら仮面を製作する事もある様で、二人には小さ過ぎる簡素なベッドと塗料で汚れた作業台だけがある部屋で、仮面の悪魔に未知の世界、言わば知ってはならぬ性愛を与えられたのです。それはこの世で最も素晴らしく、甘美の瞬間でした。女で在るという悦びを全身に受け、仮面越しの瞳は私の全てを見透かして受け入れてくれました。

しかし現実は甘美なままでは終われないのです。私には夫がいて、家庭もあるのです。それからというもの、夫と家にいる時間が苦痛のものになってしまったのです。何をしていても、どんな会話を交わしていても、私の脳裏に浮かぶのは仮面の秘事。思い出すだけでも身体が宙に浮く様な感覚に襲われ、それはもう記憶から消しようのない、呪いに変わっていました。単に言ってしまえば不貞、裏切り。しかしその言葉は背徳というスパイスへと変化し、私を彼の元へと駆り立てました。私が訪れる度に、彼は私を求め私も彼を求めました。骨張った指が、何度も私の素肌を往復し、残酷で甘い刺激の波が肢体を駆け巡るのです。それは中毒の様に、私の脳髄までもを支配し、最早意識とは関係無く私を動かします。
数ヶ月に渡り、仮面と私の淫靡な関係は続きました。ある日、狭く硬いベッドで抱き合い微睡んでいると、彼はゆっくりと身体を起こして優しく私の髪を撫でて悲しげに言いました。
「君は人の汚さが見えてしまうんだよ。だから君は人の眼差しを恐れているんだ」
眠気に霞む視線を彼に送ると、烏の羽の様に黒く、冷たそうな仮面の奥で大粒の涙を溜めていました。
「きっと僕がこの仮面を外せば、君は他の人間達を恐れる様に、いやそれ以上に僕を恐れるんだ」
痛々しさすら感じさせる口ぶり。彼が居た堪れなくなって、私は力強く抱き締めました。しかしその時の私はまだ、彼が口にした言葉の本当の意味を知らなかっただけだったのです。

冷たい無機質的な現実の生活と甘美極まる夢の様な仮面の恋人との秘密の生活。罪深い二重生活はそう永くは続きませんでした。夫は私が決まった時間に家を出ることを、どういう事だか知ってしまったのです。内向的で友達も少ない私が、そう頻繁に外出するなど疑わしく感じて当然です。疑念に疑念が積み重なった夫は、確信を得るべく私の後をこっそりとつけて来たのです。廃れた小汚い路地裏を、嬉しそうに歩く妻の姿をどんな気持ちで見つめていたのでしょう。気づけば、私は身持ちの悪い最低な妻に成り下がっていました。視線からの解放、性愛への貪欲な衝動、その為だけに家庭の幸せを踏みにじったも同然です。
その日も相も変わらず、仮面に溺れていました。私自身も中世ヨーロッパ風の華美な仮面を纏い、彼の腕に抱かれ、お互いの仮面を擦り寄せてその場限りの愛を囁き合っていました。これこそ幸福だと言わんばかりに、彼と温もりを通い合わせていたその時、店先で勢い良く扉が開く音がしました。挨拶もせずズカズカと中へ踏み入る様子から、その人物が唯の客ではないことは容易に察する事が出来ました。憤怒すら感じさせる威圧的な足音に、額には冷や汗が滲みます。次第に足音は店の奥、私達が何度もまぐわった小部屋へと近づき、突き破る様に扉が開きました。

もうお察し頂けたかと思いますが、夫だったのです。こめかみに青筋を立て、汗だくの夫が一糸纏わぬ姿でベットに腰掛ける私達を見て、大声で怒鳴りました。当然です。私は彼を拒み続けた上に、何処の馬の骨かも分からぬ仮面の男に初めてを捧げていたのですから。そして夫は彼に掴みかかりました。
「なんだこのふざけた仮面は」
必死に夫の腕を振り払おうとする彼から、力づくで仮面を剥ぎ取ったのです。瞬時に彼は両手で顔を覆いましたがそれもなぎ払われ、へたり込む彼を羽交い締めにして私の前へと晒し上げる様に突き出しました。
「お前はこんな醜い男に熱を上げ、俺を裏切ったのか」
私は卒倒しかけました。この世で一番妖艶で美しいと思っていた仮面の奇人の正体は、皮膚は爛れ眉は無く、白目は沼の底の鯰の様にどろりとした化物だったのです。恐ろしい姿を間近で見せられ、私の火照っていた身体は一瞬にして氷の様に冷たくなり、首を絞められた様に苦しく、強烈な吐き気に襲われました。側に脱ぎ捨てていたワンピースに急いで脚を通すと、すぐ様その場から逃げ出しました。何度も通って来たこの路地裏は、いつもより一層汚らしく見えました。自分の浅はかさ、愚かさに涙すら出ないのです。裸足で走る私の後を、遅れて夫が追いかけて来ました。獄卒の鬼と見紛う程、怒りと憎しみに満ちた恐ろしい顔を真っ赤にし私を追います。こんな状況で家になど帰る気は更々無かったのですが、とうとう鬼と化した夫に腕が抜けそうになるくらい強く掴まれ、そのまま引き摺る様に連れ帰られました。

この世にこんな醜悪な言語が存在していたのかと驚く程、汚く下品な言葉で罵られました。それは三日三晩続き、私は心身共に疲弊を極め力なく床に突っ伏していました。しかし夫の気持ちは収まらず、私は地下の物置きに幽閉されることとなりました。毎夜毎夜、罵倒され嬲り犯され畜生以下の扱いを受け続けました。
そして暫く拷問の様な日々を送っていく中で、私の精神は次第に秩序や均衡を失っていきました。

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