大切な人との時間を確保できていますか? - 初任者の頃の後悔 -
初任者の頃の私は、若くて、楽しいことを求めていて、ただただ必死に目の前の子どもと向き合い、自分の時間をどこまでも仕事に使っていた。
うまくいかないことも多かったけど、周りの先生に支えられながら、一生懸命に授業も生徒指導もやっていた。
どれだけ授業準備に時間をかけても、自分の授業には自信をもてない教師1年目。
それに加え、中2の担任。初任者の私よりも学校のことをよく知っている2年生、思春期で難しい時期の2年生。
ちゃんとしないとなめられるから、一生懸命に「センセイ」になろうと努めた。
勤務時間が12時間超えるのは当たり前。そんな当たり前の毎日に疑問をもつこともなく、帰宅時、疲れて眠くなったらコンビニに車を停めて寝て、夜遅くに帰宅する。
どれだけ疲れていても、辛くても、苦しくても、初任者は初任者なりに頑張らないといけない、期待してくれている先生たちのためにも頑張らないといけない、そんな思いで毎日を過ごしていた。
大変だったけど、実家から通っていた私は、家に帰ればご飯はあるし、洗濯はしてもらえるし、一人暮らしの方に比べたら、生活面では楽だったと思う。
そんな教師1年目、母が癌になった。
教師になるまで支えてくれていた母が癌になり、どうしていいかわからなかった。
いつもそこにいてくれた母の死を、初めて身近に感じて、車の中で泣いた。不安で不安で泣いた。泣きながら学校にいって、学校に着いたら、笑顔で働いた。
そんな母は、実家から離れている癌専門の病院に入院した。
お見舞いに行こうとも、遠くて毎日いくことはできなかった。ただでさえ、帰宅は遅いのに、そんな中で時間を見つけることができなかった。
おまけに部活動は一人で顧問だったから、平日の部活動も土日の部活動も自分がいないといけないから、学校を休むことができなかった。
いや、本当はできた。別に一人顧問でも、いざというときには、教頭にでも校長にでもいえばなんとかしてくれたと思う。
でも、当時の私は若くて、初任者で、「人に迷惑をかけちゃいけない」と思って、学校を休むなんてできなかった。
教師になった私を、父も母も応援してくれていたから、いちいちお見舞いのために休むなんてしなくていい、と2人も思っていた。
それでも私はあのとき、休んで母の近くにもっといてあげるべきだっと思う。今なら思う。
結局私は、年休(有給)を使うこともなく、母の入院中も毎日毎日、普通に学校で働いていた。
母のことは不安で不安で仕方なかったけど、仕事だって不安で不安で、休むなんてできなかったから、目の前のことにただただ必死に取り組んでいた。
母の大きな手術の日。
その日も私は学校にいった。初任者だし、担任だし、授業あるし、部活動だってあるし、「行かなきゃ行かなきゃ」そのとてつもない責任感で、学校に行った。
行ったけど、授業していたけど、母の手術が心配で心配で、気づくと泣きそうになっていた。
職員室で、たまたま教務主任と話していて、たまたまその話になり、話していたらボロボロと泣けてきた。給食前。
教務は「学校のことはいいから、お母さんのところにいってあげな」と。
私、「でも今から給食指導あるし…」
私はバカなのか。
教務は「それは他の先生に任せて、もう今日は帰りな」
そういってくれた。
私は、もちろん教師の責任を果たすべきなのだけど、同時に娘としての責任を果たすべきだった。
でも、当時の私は、それに気づけなかった。
「先生は休んじゃいけない、休めない」そんな思いで、一番大切にしたい家族のことを一番に考えれなかった。
私は、当時の母が入院していたときのことを今でも後悔している。
手術後、よくなったと思ったら転移をして、抗がん剤治療もして、その後も少し闘病生活が続いたけど、幸運にも母は助かり、13年経った今も元気に暮らしている。
あのとき、たくさん家族のことを一番に考えられなかったから、今は一番に家族のことを考え、大切にしたいと思っている。
教師を辞めたからこそ、家族と過ごす時間も増え、「7つの習慣」のおかげで「自分の思い」と向き合えるようにもなった。
今も必死に、目の前の子どもたちと向き合い、子どもたちのため教育のために、尽力してくれている先生方にも、大切な人はいる。
大切な人を大切にしてほしいし、自分自身も大切にしてほしい。
そのための時間の確保のために、学校を休むことだってしていい。
私はそれが上手にできなかったから、そんなことを若い世代にも周りにももっと伝えていきたいと思っている。