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声を残すこと
私は小さい頃、家族以外の人と話すことが少し難しい子でした。
特に同い年の子たちとコミュニケーションをとるのが苦手でした。
私は幼稚園の全員のフルネームと顔を覚えていました。
さらには、それが共感覚と呼ばれるものだと後々知るのですが、特定の人たちの顔に味を感じました。いろんな味があるというより、塩分濃度の違いのような感覚です。ある人とない人がいました。
特定の数字に色を感じました。
それもやはりすべての数字にはっきりと違う色を感じるのではなくて、具体的にいうと、
7と8、17と18の周辺に紫色のグラデーションを感じていました。
青紫と赤紫の間の感覚です。
ある時期まで、人前に立って話すことは
私にとってできるだけ回避したいことでした。
クラスで発表のときは首まで赤くなりました。
ある朝のテレビ番組に私が映っている動画を
担任の先生が、(なぜか)他の学校の理科の先生から入手して
給食の時間に流したときは
トイレの個室に逃げました。
それがある先生との出会いをきっかけに
クラス発表が楽しみで仕方がない子どもになりました。スピーチのコンテスト、年齢ミックスのディベートの大会、歌のコンクール、そうした場で私は声を介しての表現をするようになり、それはいまも続くライフワークとなっています。
最近私はYouTubeに動画を載せています。
これの理由のひとつは、
実は私の死生観のようなものによるものです。
単純に、
もし私がこの世にいなくなるときがきても
私が動き、話している映像、音声が残っていたら。
それは私がそこに生きていることに
近いと思えるからです。
それは私の家族や、親しくしていた人たちの何かしらの、たとえば寂しさが少し紛れるとか、
何かプラスになるような気がしています。
YouTubeは私の小学校の先生が視聴していました。
何が良いって、YouTubeは他のソーシャルメディアに比べて、長い期間残る傾向があることです。
12年前にアップロードされた動画なんてザラにあります。
私が生きていたという事実を、
残しておくのに便利な場所だと思います。
自分の声にコンプレックスを持っていた子が
好き好んで動画を撮って載せているんですから
私はその頃の自分に
あまり悩まなくていいよ、
いっぱい生きるんだよ、と言ってあげたいです。
中には、私の動画をちゃんと視聴してくれる人もいるんだよ、
良いって好きって言ってくれる人も
少しいるみたいだよ、って
声をかけてあげたいです。
私は生まれてきてよかったです。