評論『燃ゆる女の肖像』② 正史、それが取りこぼすもの、語られなかった歴史
歴史を描くことの不可能性を語るように、物語の中で”エロイーズ”という現実は常に肖像画を超え続ける。存在しないたおやかな笑顔を浮かべた一枚目の肖像画を本人に否定され、塗りつぶしたマリアンヌが、描き直しの二枚目で選んだ肖像画でのエロイーズの表情は、彼女が冒頭頻繁に示していたような、憮然とした、ねめつける様な、どこかマニッシュな表情であった。しかし二枚目を描く間にも、画家とモデルの関係性はどんどん親密になり、恋仲になり、エロイーズは様々な笑顔を見せるようになった(その実に色とりどりな笑顔のどれもが、一枚目の想像の笑顔とは異なっていたのもとてもよかった)。完成しつつある憮然とした表情の彼女を描いたカンバスの向こうで、いたずらっぽく蠱惑的な、きらきらと輝く笑顔を見せる彼女に対し、画家は「まじめにして」とややむっとするようにたしなめる。どんなに誠実に書き留めることに尽くしても、現実が表象を超えていく。そして”正史”たるカンバスに残らないものであるからこそ、マリアンヌはその笑顔を自分のものだけにすることができた。そうやって書かれた歴史(確かエクリチュール、と言っただろうか?)は人の心の機微を取り逃してきたのだ。「いつ完成するの?」わずかな洋服や手元の陰影に筆を入れ続ける画家にエロイーズが投げかける問いが象徴的だ。出会ったばかりのその仏頂面の、目の奥の柔らかな光、婚約者がこれから出会うだろう彼女は、過去にマリアンヌが相対した彼女、それで足り、絵は木箱に釘を打たれ封入されてベネチアに贈られる。しかしふたりが生きて行く時間はその後も完成しない。
”正史を描く者”として派遣された画家・マリアンヌは、エロイーズとふれあうなかで”拾われない声を拾う、零れ落ちる物をも描く”画家へと成長を遂げていく。”零れ落ちるものをも描く”ことの最たるものとしてはやはりソフィ(召使)の堕胎のシーンだろう。堕胎のシーンの壮絶さには目を見張る。無理やり走り込んだり、薬草を探して煎じて飲んだり、失神するまで首吊りまでしている様子で、そのように妊娠中の体を苛め抜いても下血(流産)しなかったため、最終的には非合法の産婆に手術を依頼するという流れなのだろう。当然このような堕胎は歴史にも残されず、胎児の命は失われ、運が悪ければ母体の死にも至ったはずだ。そうやって幾人もの女性が心身を犠牲にし、歴史の闇に消えて行った。ソフィ、マリアンヌ、エロイーズの3人が堕胎のための薬草を探すシーンは、「落穂拾い」の構図に酷似しているようで、これもまた正史/描かれなかった歴史の対比を感じさせる。長閑な田園風景として描かれた「落穂拾い」に、女たちならではのそのような事情が隠されていたのではないかという、やや飛躍もあるがなくはない問いかけだ。(絵画をテーマにした映画なので、その他にも名画を寓意した構図・シーンが隠されているのかもしれないが、私は一見してこのシーンしか気づくことができなかったので、分かる方は教えてください。)
堕胎の凄惨さに目をそむけようとするマリアンヌにエロイーズは「しっかり見て」とその様子を正視させようとし、あとでその堕胎の構図を再現してマリアンヌにスケッチさせもする。このシーンのマリアンヌはあまりに説教くさく、監督が画面の向こうから観客に説教してくるような感じがして、しかも、堕胎するソフィのすぐそばに赤ん坊を横たわらせるという演出もわざとらしさが過ぎたのだが、良かったのは、ひたすら訥々と「運命を受け入れて生きる」ソフィという女性の在り方と女優の演技である。望まぬ妊娠をして当然のように女主人が留守の間に堕胎すると表情を変えずにのたまい、悲劇的に嘆く手もなく、苦しさを大げさに訴えるでもなく堕胎の苦行に堪え、何事もなかったかのように言葉少なに職務に戻る。中産階級~上流階級のマリアンヌやエロイーズのように、自分とは何だろうと悩んだり、立ち止まって考えることもない。後世のフェミニストがこの女の苦しみを世間に広く訴えることなど思いつきもしないだろう。ただ女として受難を当然とみなし、訥々と仕事をし、与えられた人生を終える。声を上げない一般市民としての女性、身分の低い女性とはこのようであっただろうと胸を打たれる演技だった。彼女たちが文句も言わず命を繋いできたから今がある。
当時のフランスでソフィにあたるような人物はどういった人種・国籍(出自)であったのだろうと思うので、詳しい方は教えて欲しい。女優はやはり移民系が演じているようだ。
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