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奥浜名感懐(2023-2024) 9.『鳥に寄せて』          さやのもゆ

冷気が、晴れ渡る空に深くー蒼い。お正月の午後、母と私はいつもの散歩道ー都田川河口ちかくの田んぼ道を歩いていた。
堤防の下道を南へ、細江大橋のたもとまで進んだところで右に折れる。再び田んぼ道をぐるっと周り、堤防の方へ戻ろうとした時である。
田んぼの南はしを横切る道路には4~5台の車が路肩に駐車しており、何人かの男性が立っていた。いずれも望遠カメラを手にしており、長い筒型のレンズが突き出ているのが見えた。
どう見ても、鳥の撮影がお目当ての面々である。そう言えば、亡くなった父も鳥を写真に撮るのが好きで、望遠レンズも当然、持っていた。
そんな事をぼんやりと思い出していると、めずらしく母が〝鳥待ち〟のひとりに訊ねたー「何の鳥を撮るんですか?」と。
聞かれた相手は「いま、『ハイタカ』という鳥が現れるのを待っているんですよ。(北方の山を指して)ついきのう、細江公園から尉ヶ峰(じょうがみね)にかけての山の上を旋回してたって言うんですがね」ー今日はまだ、姿を現していないという。
散歩から帰ったあとで、“ハイタカ”なる鳥のことを調べたときー今から8年前の1月に亡くなった父をめぐる出来事が、つぎつぎと思い出されたのである。

ー2015年の暮れ、そのころ病気治療中だった父が突然、脳梗塞を起こして救急搬送されるが、血液検査の結果、治療が不可能と診断された。もはや、対症療法以外になす術もなくーこれでは望みを絶たれたも同然である。
ぼう然と立ちつくす私。
母は医師の前で「助かると思ってましたのにー!」と、泣き崩れた。
そのまま父は入院するがー声を出せないので、意思の疎通もままならない。
もどかしい思いはあったが、それよりも父の容態が日に日に悪化していくのが恐ろしかった。

私と、母・妹が1日交代で付き添うことにし、大晦日は私が家にいた。
夜の8時を回ったころ、家の呼び鈴が鳴ったのでドキリとした。一体誰だろうと玄関を開けたら、なんと父方の伯父が父を心配して訪ねてきてくれたのだ。
近くに住んでるといっても、500メートルほどの道のりを歩いてきたのである。ありがたいとは思ったが、今の父の状況を告げるわけにはいかない。ただでさえ伯父は血圧が高くー「200の余(よォ)ある」などと自分で言ってるくらいなのだから。
「父はいま、家にいないんです」ーこう言って私は、車で伯父を送っていった。
もし、本当のことを知ったらー伯父はどうなってしまうだろうか?
私にはそうするより他、なかったのだ。

年が明けてから、入院した時は正常値だった父の呼吸レベルが、目に見えて悪化していきー酸素吸入を使っても苦しい状態となった。
1月4日、ついに主治医の先生はステロイド療法を決断し、これが最後の手段となる。
そして、1月5日の朝ー。
何日も苦しみ続けた父は、体力が残っていないにもかかわらず、必死に呼吸を繰り返していた。
母は、急いで親族に連絡を取りはじめー母方の叔父は仕事始めの出張を取り止めて病院に向かうと言う。
しばらくして父方の伯母や浜松の伯父もタクシーで駆けつけ、残る本家(ほんけ=父の実家)の伯父のことが、気がかりだった。
浜松の従姉が迎えに行くとのことだが、父はもう、危篤状態である。
午前10時半ごろになって、廊下を検査技師がやって来るのが見え、病室の私と目が合った。
もう、レントゲン撮影は必要ないー私が首を振って応えると、技師は引き返していった。

それからほどなく、父の呼吸はからだの動きとともに止(や)んでいき、脈拍が急激に降下した。医師はすぐに来て、父の首に指を当てたがー今のところ、微弱(びじゃく)ながら脈拍があるという。
私は、思わず医師に言ったー「まだ、父の実家の当主が来ていませんから、それまで診断は待ってください」と。
血圧の高い伯父を、無理に急がせることはできない。でも、父の命があるうちに行き会ってほしいーそろそろ、正午が近づいていた。
取り乱した母は、「お父さんがいないと、生きて行けないー」と、泣きながら駆け寄り、父のひたいに自分のおでこをくっつけた。そしてー意識を失っていく父と最後の、ひと言ふた言のことばを、交わしたー(私には、そう見えた)。

すると、間もなくドアの向こうから足音が聞こえ、本家の伯父がいそぎ足で病室に入ってきた。父の枕元にかけ寄った伯父は、すでに顔をくしゃくしゃにして泣いていた。
父の目が、伯父の姿をとらえていたかは、定かでない。でもきっと、分かってくれたはずー「お父さん!伯父さんが来たよ、分かるよね。」ー母とわたしは、父にそう呼びかけた。

最後に、ふだん気の強いはずの妹が、涙を流して「起きろ!」と、言ったのにー。
父は二度と目を覚ますことはなくー医師の診断によってー2016年1月5日12時4分、父は家族と親族に見守られながら、72年の生涯を閉じた。

父の葬儀は1月9日の土曜日に執り行われ、この日は快晴であったのを覚えている。前日の通夜は斎場に泊まり、父との最後の夜を過ごした。

朝、柩に納められた父が祭壇の前に移された。
そばに立っていると、外の駐車場に見慣れた車が停まり、三ヶ日の母方の叔父が、早足で斎場に入ってきた。
片手には何か、黒いものを持っており、私たちの姿を見るやいなや、高々とそれを差し挙げた。
「昨日、会社から写真を撮ったんだけどー柩に入れても良いように、紙の枠に入れてもらったよ。」ー叔父は、浜名湖畔の小高い山腹に、自分の会社を構えている。いそがしい合い間を縫って、社屋から望遠カメラで鳥を撮影し、写真が好きだった父のためにと持参してくれたのだ。
さっそく写真を柩の中の父の胸元に納める。
それは、木のてっぺんに止まったハヤブサが、まさに飛び立とうとしている姿。
翼いっぱいに風をはらんだ瞬間をみごとにとらえており、湧き立たんばかりの高揚感に満ちていた。これ以上はない、亡き父への手向けである。

父は、ハヤブサの写真を胸に、空へと旅立って行ったー。

葬儀が終わってのちの週末。
三ヶ日の叔父がわが家にやってきて、今度は額に入ったハヤブサの写真をもってきてくれた。

「あれからまた、粘ってハヤブサを撮ってみたんだけどな、お前のお父さんにあげたようなのはー結局、撮れなかったよ。」

ーそう言って、叔父は笑った。

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