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孤独や自由とはちょっと違う

むしろ僕は酒をやめるまで、「寂しい」とは思ったことがなかったような気がする。寂しさとは、ゆっくりと、静かに、深くやってくるものなのだと、酒をやめてから感じるようになった。
それがいいことなのか、悪いことなのかはわからない。しかし、僕は「寂しい」と思えるようになって、今はとても幸せである。

『モヤモヤの日々』宮崎智之

私が今まで感じてきた「寂しい」は貧相なものであったような気がする。貧相で卑しくて利己的な、そんな寂しさだったような気がして、じゃあ豊かで深みのある寂しさとはどういったものなのかと考え始めた時に浮かんできたのは、漫画『ゆるキャン△』のあるシーンだった。

『ゆるキャン△』は今13巻まで出ている、割と長い漫画なのだけど、その最初の何巻かを割いて、ソロキャンが好きでいつも一人でキャンプをしていた主人公のリンが、ソロキャンもいいけど、みんなとやるグループキャンプもいいなと気づくまでを描いている。
リンの周りの友人たちもリンのひとりの時間を尊重しているところがいいし、ソロキャンもグルキャンもひとりの時間もみんなとの時間も大事に描かれているところが好きだ。

最初はソロキャンしかしていなかったリンがなでしこという友達ができて、2人でキャンプをするようになり、その後の4巻で初めて6人でのグルキャンをすることになるのだけど、そこでリンが足りなくなったガスボンベを買いにひとりでコンビニへ行く。
私が思い出したのはそのシーンだった。

リンがひとりでコンビニへ向かいながら思い浮かべるのは、その日1日にあった出来事、みんなと食事をしたことや遊んだことで、そうして誰かと過ごした楽しい時間をひとりでいる時に思い浮かべて、自然と笑みが溢れてしまう。わたしはこのシーンをすごく豊かでいい時間だなと思った。

誰かと会って食事をしていろんなことを喋って笑って、そうした楽しい時間を過ごしてひとり電車に乗って、最寄り駅についた後、歩いて帰りながらその日話したことや笑いあったことを思い浮かべるのが好きだ。そんな時間が好きで、まだバスがあるのにその時間を味わうため、わざわざ歩いて帰ったりする。その時間は豊かで、でもひとりで。そうした時間が豊かで深みのある寂しさにつながるのではないかな、と思う。

寂しさというのは、孤独や自由とはちょっと違うものだ。孤独は他人を求めすぎているし、自由というのは他人を求めていない。そんな気がする。
寂しさはそのどちらでもない。寂しさは、かつて誰かといた記憶を持ちつつ今はひとりでいて、いつかまた誰かと過ごすこともあるかもしれない、という余白や猶予のある状態、のような気がする。
浅井和代の口語自由律の歌に「いつかふたりになるためのひとりやがてひとりになるためのふたり」というものがあるけど、この歌は寂しさをよく表していると思う。ここでいう「ふたり」というのは恋人とか誰か特定の相手じゃなくてもいいし、わたしとあなたの2人じゃなくても、もっと大人数でも良くて、わたしじゃない誰か、他者といる自分として読んでもいい。
そうして読むと、『ゆるキャン△』のあのシーンや、わたしの歩いて帰るあの時間と重なってくる。

孤独でも自由でもない寂しさは、かつて誰かと一緒にいて満たされた記憶がある証拠のようだ。
豊かで深みのある寂しさは、自分ひとりでいる時間も誰かと一緒に過ごす時間もどちらも大事にでき、またひとりでもふたりでもどちらでも生きていけるかなと感じている人が味わえるものなのかもしれない。


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